勲章というと、とても崇高なイメージがあり、我々一般の国民からはかけ離れた存在のものである。
日本国憲法第7条7号で天皇の国事行為の一つとして「栄典を授与すること」が定めらており、これに基づいて日本の勲章は天皇の名で授与される。
様々な変遷を経て、勲章は現在22種類存在し、菊花章、桐花章、旭日章、瑞宝章、宝冠章、文化勲章に大別される。一般人視点でなじみがあるのは、科学技術や芸術などの文化の発展や向上にめざましい功績を挙げた者に授与される文化勲章であり、毎年11月3日に皇居宮殿松の間で親授式が行われ、天皇陛下から直接授与されている。
内閣府 日本の勲章・褒章 勲章の種類及び授与対象
https://www8.cao.go.jp/shokun/shurui-juyotaisho-kunsho.html
さて、日本の勲章の起源は幕末まで遡るが、日本の最初の勲章と呼ばれるものは 「薩摩琉球国勲章」 である。これは日本政府によるものではなく、薩摩藩が1867年のパリ万博においてナポレオン3世やフランス高官に贈呈したものであった。
薩摩琉球国勲章
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E7%90%89%E7%90%83%E5%9B%BD%E5%8B%B2%E7%AB%A0
1867年にフランスで開催されたパリ万国博覧会は日本が初めて参加した国際博覧会だが、そこに江戸幕府とは別に薩摩藩と佐賀藩もそれぞれ独自に出展を行った。中でも琉球王国を事実上の従属国としてその領土の一部を実効支配していた薩摩藩は、「日本薩摩琉球国太守政府」を自称して幕府とは別の独立国の政府であることを国際社会に訴えようとし、その戦略の一環として勲章の製作と贈呈が行われた。
各国の高官や外交官が一堂に会する万博は、様々な工作が繰り広げられる外交合戦の場でもあった。薩摩藩は幕府に先駆けて、かなり早い時期からこうした活動をパリで行なっており、同藩全権大使の岩下方平はシャルル・ド・モンブラン伯爵に勧められてフランスで薩琉勲章を制作し、これをナポレオン3世をはじめフランス高官に贈呈した。
デザインとしては、勲章の章部分は赤い五稜星の中央に丸と十を組み合わせた島津家の紋が白地で乗っている。紅白のコントラストが鮮やかで、五稜の間には「薩摩琉球国」の5文字が金色に光っている。。裏面には縦書き2行で「贈文官 兼武官」と記されている。大きさは、勲章を下げる綬とあわせて縦およそ10センチメートル、横4センチメートルと小ぶりである。
1867年のパリ万博については、2021年の大河ドラマ 「青天を衝け」 でも詳しく取り上げられ、吉沢亮演じる渋沢栄一や一行が、蒸気機関などに驚く場面などが描かれていた。
この中で薩摩藩が独自に出展していることについても描かれていたが、この経緯については以下が詳しい。
深港恭子 1867年パリ万博における薩摩藩とその出品物について
chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6757_20220517125815-1.pdf
フランスにおいて、万博開催に向けた具体的な準備が始まったのは1865年3月のことで、すぐさま諸外国の政府に対して万博への正式な参加要請が行われた。
日本で幕府が参加の意思を表明したのは1865年8月22日の書簡においてであった。当初幕府独自で出品物の収集が始まったが、1866年5月19日に至って諸藩や商人にも出品を呼びかけることとなる。
ただし、あくまでも幕府統率の下での「日本」の展示が意図されていた。幕府に対して参加を表明したのは,江戸の商人清水卯三郎、薩摩藩 (1866年9月6日に表明)、佐賀藩であり,この4者が参加することとなったのである。
しかしながら、他方で薩摩藩は幕府の参加表明とそれほど変わらない1865年10月15日に単独での出品を決め、フランス人貴族のモンブランにその全権を委託して博覧会委員会に登録し 「琉球公国」 名で独自の展示場を確保した。
幕府の使節団が薩摩藩の 「琉球公国」 としての出品を知ったのは、一行がフランス・マルセイユに到着した1867年4月3日のことであった。これが発端となり国内における幕府と薩摩藩の政治的対立がパリを舞台に表面化することとなった。
幕府の抗議を受け幕府・薩摩藩・博覧会事務局の三者で協議が行われ、最終的に「日本」という枠組みの中で、幕府は「日本大君政府」、薩摩藩は「薩摩太守政府」と名乗り、展示場は別々に行うことになったのである。
薩摩藩は琉球産物や調度品など128品目、約400箱を出品し、特に薩摩焼は絶賛された。そして薩摩藩は参加記念票として「薩摩琉球国勲章」 をつくり、ナポレオン3世をはじめフランス高官に贈呈した。ナポレオン3世からその返礼も受け取っている。
勲章は相互交換が原則であり、勲章制度のない幕府は、国際外交の輪の中にとけ込むことが出来なかった。完全に幕府は後れをとった形となった。
危惧した幕府は、対抗するべく早急に勲章の鋳造・発行を行うよう計画した。それが 「葵勲章」 である。しかし、実現を見ないままに大政奉還が行われて幕府は滅亡し、この勲章は幻のものとなった。
ということで葵勲章は実在はしないが、1997年に千葉県松戸市の戸定歴史館の主導により、そのデザインの再現復刻された。 (戸定歴史館はパリ万博にも参加した徳川昭武が、隠居後に造った別邸だある戸定邸に整備された博物館である)
日本近代史研究者の長谷川昇氏の研究に基づくもので、三葉葵紋に龍がからむ伝統的なモチーフとなっており、徳川幕府の勲章として充分に権威を示している。
パリ万博から大政奉還の流れが少しでも違っていたら葵勲章が歴史上に存在し、日本の外交もまた違ったものとなったと思われる。
その点では残念だが、葵勲章は計画のみに終わったことが史実である。