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日本は2018年時点で中国、アメリカ、ドイツに次いで世界第4位の輸出大国であり、輸入でもアメリカ、中国、ドイツに次いで第4位となる。貿易総額は30年前の1988年から比べると、約2.8倍になっている。主な輸出品は何と言っても自動車で約15%を占めるが、現地生産も進んでおり今後の動向はわからない。輸入品は原油がトップという構造は長い間変わらない。

歴史の授業で習うとおり、日本は江戸時代の鎖国政策により貿易も出島 (オランダ・中国)、対馬藩 (朝鮮)、薩摩藩 (琉球)、松前藩 (アイヌ) に限定されていたが、1853年のペリーの来航ののちに1858年に締結された日米修好通商条約によって、幕府は横浜、新潟、神戸、長崎、箱館を開港した。同様の条約は英仏蘭露とも結ばれて、安政五カ国条約とも呼ばれた。そしてここから日本の産業そして国全体が大きく変化した。

以下の資料はペリー来航以来の貿易額の推移と主な出来事を記しているが、これによると条約の翌年の1859年は輸出輸入各々が1百万ドルという規模だった。通貨価値がわからないので直接的な比較はできないが、翌1860年には輸出5百万ドル輸入2百万ドル、明治元年の1868年には輸出20百万ドル輸入15百万ドルと、年々取引額が大きく増加していった。

横浜税関の歴史(参考2)貿易額の推移と主な出来事
https://www.customs.go.jp/yokohama/history/history150_ref2.pdf



また1860年の横浜港の輸出入品目は以下のように、輸出は生糸が中心で茶が続く。一方で輸入は綿織物、毛織物が大半だった。神戸港の1868年の記録では「小銃および付属品」が輸入の2位となっているが、江戸時代末期ごろに西欧軍事技術の研究が盛んになり各種の銃砲が積極的に輸入されるようになったものだ。

横浜税関の歴史(参考3)横浜港の主要輸出入品目
https://www.customs.go.jp/yokohama/history/history150_ref3.pdf
神戸港 開港~明治(1868 年~1911 年)
https://www.customs.go.jp/kobe/00zeikan_top.htm/150toukei/2_meiji.pdf





しかし、長く鎖国政策をとっていた日本が開国してすぐに円滑に貿易や経済政策を行えるわけはなく、様々な困難が待ち構えていた。
まず、幕府が定めた金と銀との交換比率は諸外国に比べて著しく金が割安だったために、大量の金が日本から流出し、その結果インフレを招いた。

日本のインフレーション 幕末のインフレーション
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3#%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3

近世初頭に佐渡金山や土肥金山などでゴールドラッシュがあった日本では、その後の鎖国で貿易量が大幅に減った結果、国内に金が蓄積され市場の金は比較的豊富だった。幕末の頃でも日本の金銀比価は約1:10と金安で、さらに名目貨幣である一分銀が多く流通していたため擬似金銀比価は約1:5となり、これは金銀比価が約1:15だった当時の欧米列強からは羨望された。
安政の仮条約で通商が始まると、列強は日本に大量の銀を持ち込み、小判を買い漁った。これを本国で鋳潰して公定価格で売るだけで大儲けができるからである。これで金の大量流出が起こり、幕府は流出を防ぐため金の含有量を3分の1に圧縮した万延小判を発行し、ようやく金の流出を止めた。ところが正貨の貨幣価値が3分の1に下落したこと、また諸外国との貿易の開始によって国内産品が輸出に向けられたため、幕末期の日本経済はインフレーションにみまわれた。また諸藩の軍備近代化のための輸入増加に伴う通貨流出等の相乗効果で物価が騰貴して、庶民の暮らしは苦しくなった。これが江戸幕府崩壊の一つの原因と言われている。


また、生糸などの輸出品は国内市場よりも貿易市場の方が高値で取引されていたため、生産地と市場を仲立ちしていた在郷商人が江戸などの大都市の問屋ではなく、直接開港場へ生産品を卸すようになり流通がマヒした。また輸出需要の増加に対し生産供給が追いつかず、全般的に物価が高騰した。このような状況で発令された貿易統制法令が「五品江戸廻送令」である。

五品江戸廻送令
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%93%81%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%BB%BB%E9%80%81%E4%BB%A4

江戸の問屋商人らの要望も受けた江戸幕府は、1860年に生糸、雑穀、水油、蝋、呉服の5品目について、必ず江戸の問屋を経由する法令 - 五品江戸廻送令 - を発出した。この法令は、江戸問屋の保護と物価高騰の抑制を目的としていたが、すぐに列強各国から、条約に規定する自由貿易を妨げると強い反発を受けた。また、在郷商人らも依然として港へ直接廻送を続けたため、法令の効果はあがらなかった。
だが開国の反動から攘夷鎖国への傾向が出てきたことを背景に、1863年から幕府は同法令の本格施行を強め、その結果、生糸輸出が減少するなど次第に実効が現れていった。しかし列強各国は幕府へ同法令の撤回を強く迫り、一方幕府内部からも生糸の輸出に税金をかける形で抑制した方が幕府財政の改善にも繋がるとする意見も出された。このため、幕府も開国の流れを止めるのは得策でないと判断し、実質的に同法令は放棄されることとなった。


日本の生糸産業は明治時代に様々な取組が進められた結果、大正時代に飛躍的に拡大した。官営模範工場富岡製糸場とともに、輸出先の米国が求める高品質の生糸の生産を実現し、我が国の近代化に大きく貢献したが、それはこの貿易統制法令を乗り越えた結果である。



また生糸と並んで主力輸出品であった日本茶は、開港当時から順調に輸出量を増加させたが、品質問題で躓いた。

日本茶輸出促進協議会 日本茶輸出の歴史
http://www.nihon-cha.or.jp/export/trends.html

1610年オランダの東インド会社が、平戸からヨーロッパに日本茶を輸出したのが我が国の最初の輸出です。黒船来航後、各国と修好通商条約を結び、1859年重要な輸出品として181トンが輸出され、以後重要な輸出品として我が国の産業形成に寄与することとなりました。明治に入るまでの輸出の状況は下図のとおりです。



日本茶 輸出
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%8C%B6#%E8%BC%B8%E5%87%BA

1867年にはサンフランシスコと香港・日本をつなぐ太平洋航路も開通し、明治に入ると輸出量が激増、茶価も高騰した。主な輸出先はイギリスとアメリカで、明治末年まで生産量の60%以上を輸出していたが、明治中期まで再製所を欧米人が独占経営しており、日本の茶商は外国人商社に売り渡すことしかできなかったため大きな利益とはならず、粗悪茶が横行し、1883年にはアメリカが日本茶の輸入禁止条例を発効、輸出は激減した。1908年にアメリカが輸入茶に高率な関税を課したことで日本茶は危機的状況を迎え、同時に19世紀半ばにイギリスがインドなど植民地での茶の栽培を成功させたことで紅茶が主流になっていき、そのイギリス植民地産紅茶がアメリカ市場へも進出し、日本茶の輸出量は減少していった。

静岡県立中央図書館 戦前の茶輸出
https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/50/1/ssr4-53.pdf

粗製茶には、乾燥が不十分なもの、そのために色が悪くて変色したものや輸送の間に腐敗してしまったもの、他の植物を茶葉に擬製したものやそれを良茶に混ぜたもの、茶箱に土砂を混入して重量または容量を増加したものなど様々あるが、どれもお茶とはよべないものであり、海外における日本茶の信用を低下させていた。粗製茶に対する取り締まりは厳しく行われたが、一向に後を絶たなかった。
また生産費を減少させる方法として機械製造が導入されるようになったが、当初の製茶機械はまだ改良を要する部分が多く、火の入り方が良くなかったため結果として粗製茶ができあがった。特に火入れが不十分なため時間がたつと茶が変質してしまうという代物であった。
このような状況に対し、アメリカ合衆国大蔵省より1911年に「米国粗悪不正茶及着色茶輸入禁止に関する大蔵卿訓令」が出され、よりいっそう取り締まりが厳しいものとなった。工業が十分に発展しているとは言い難い当時の日本にとって、海外に輸出できるものは一次加工品しかなかったが、戦前の「メイド・イン・ジャパン」は粗悪品の代名詞だった。


やはり何事も最初からうまくはいかない。このような経験が近代~現代日本の貿易と産業の発展につながったことは間違いないだろう。


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