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FIFAワールドカップをはじめ、サッカーの代表チームの動向はどの国でも注目が高い。では日本サッカーにとって最初の代表チームはどのようなチームでどのような成績を収めたのだろうか。

日本代表にとって最初の国際試合は、1917年5月9日の対中華民国代表戦である。これは第3回極東選手権という大会におけるサッカーの試合であった。まず「極東選手権」について展開したい。

極東選手権競技大会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E9%81%B8%E6%89%8B%E6%A8%A9%E7%AB%B6%E6%8A%80%E5%A4%A7%E4%BC%9A

極東選手権競技大会とは、1913年、マニラのカーニバルをきっかけに、フィリピン、中華民国、日本を主な参加国(この3ヶ国のほか第10回のみジャワ≪オランダ領東インド≫が参加)として、1934年まで10回開催された競技大会である。
第1回は東洋オリンピックという名称であったが、第2回以降「極東選手権大会」に改称された。主催者は極東体育協会で、アメリカYMCAからフィリピンに派遣されていたエルウッド・ブラウン (バスケットボール指導者) の提唱で1910年に設立された。
1917年に開催された第3回大会は日本にとって初の国際的スポーツ競技大会の開催とされる。会場は東京市芝区芝浦の埋め立て地 (現・東京都港区海岸2丁目の日の出桟橋付近) であった。1923年大阪での第6回では、ラグビーが公開競技ながら日本で初めて国際試合として実施された。それを観戦した秩父宮雍仁親王は、その後日本ラグビーとの関わりを強め、花園ラグビー場建設のきっかけになったほか後年には秩父宮ラグビー場の名前の由来ともなる。
1934年マニラ大会中に満州国参加に伴う憲章改正問題で日華が対立し、中華民国側の委員が総退場し、極東体育協会および選手権大会は消滅した。
なお現在のアジア競技大会は、本大会と1934年に1回だけ行われた西アジア競技大会を基として復興されたものであるとされている。

このように3ヵ国(または4ヵ国)のみの参加とはいえ、大正~昭和初期にかけて日本のスポーツ・各競技に大きな影響を与えた大会であったといえるだろう。

そしてサッカーは第1回・第2回とも行われたが日本は不参加 (したがってフィリピン対中華民国戦のみ) だったので、1917年の第3回が日本代表にとっての初めての国際試合となった。

KEGEN PRESS 日本サッカー幕開けの歴史とJFA創立100周年
https://kegenpress.com/jfoot-history2/

当時、日本には国内サッカーを統括する組織がなかった。日本代表選手を選抜するという発想もなく、出場チームを決める予選大会が開催されることになった。しかし、関西代表の御影師範が当日に不参加となるなど予選大会は行われず、最終的に東京高等師範が第3回極東選手権大会に日本を代表して出場することになった。
第3回大会は1917年5月に東京・芝浦の埋立地に設けられた仮設グラウンドで行われた。これが日本サッカー史上初の国際試合である。
日本代表は中華民国戦で0-5と完敗。続くフィリピン戦は2-15の大敗を喫した。ちなみにこの1試合での15失点は、現在もA代表の最多失点記録になっている。
日本は惨敗したが、初の国際大会への出場は大きな反響を呼んだ。国内でのサッカーへの関心と「熱」は高まり、全国各地でサッカー大会が盛んに行われるようになった。翌1918年には、東京で関東蹴球大会、名古屋で東海蹴球大会が開催された。また大阪の豊中では大阪毎日新聞社が主催した「日本フートボール大会」が開かれた。

この写真が大会のメンバーになるが、さすがに誰が誰がかはわからない。

経緯はともかく、栄えある初代のサッカー日本代表となったのは東京高等師範のチームで、現在の筑波大学蹴球部である。

筑波大学蹴球部
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E6%B3%A2%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E8%B9%B4%E7%90%83%E9%83%A8

体操伝習所における教材としてサッカーが取り入れられた1878年が現在の筑波大学とサッカーとの始まりとなる。1886年に高等師範学校に体操伝習所が統合されて、高等師範学校の「体操専修科」となった。
1896年3月、高等師範学校の「フートボール部」として創設され、同校教授の坪井玄道が部長に就任した。なお、当時はラグビーと未分化であったと伝えられている。1902年に高等師範学校から「東京高等師範学校」(東京高師)に改名した。
1917年5月、東京高師が日本代表チームとして第3回極東選手権競技大会に出場。5月9日に初めての日本代表としての国際試合で中華民国代表と対戦した(0-5で敗北)。また、5月10日には元FCバルセロナのパウリノ・アルカンタラを擁するフィリピン代表と対戦し、2-15で敗れたが、この試合で東京高師在学中だった藤井春吉が日本代表初得点を記録した。なお、この試合は現在でも日本代表の最大差敗戦試合となっている。

http://samuraiblue.jp/timeline/19170509/
http://samuraiblue.jp/timeline/19170510/

この試合と大会の結果は以下のサイトに情報がある。中華民国代表戦ではFung Kin Waiに3得点、フィリピン代表戦ではパウリノ・アルカンタラに6得点 (但しフィリプン代表の最後の10得点は正確な記録なし) を許してしまったようだ。
尚、事実上の決勝戦となった中華民国代表対フィリピン代表の試合は、55分に中華民国代表の3点目をTong Fuk Cheongが決めた後、フィリピンのGKがTong Fuk Cheongの顔を殴って乱闘が始まり、試合関係者と警察によって仲裁され、試合はそのまま中止となった。。 従って2勝0敗の中華民国代表の優勝となった。

https://en.wikipedia.org/wiki/Football_at_the_1917_Far_Eastern_Championship_Games
https://www.rsssf.org/tablesf/fareastgames17.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Paulino_Alc%C3%A1ntara#International

そして、日本代表で初ゴールを決めた藤井春吉 (のちに養子入りして北村春吉) は以下のような人物だ。

北村春吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%91%E6%98%A5%E5%90%89

1897年、滋賀県野洲郡野洲町に生まれた。滋賀師範学校(現・滋賀大学)在籍時に恩師の落合秀保と出会い、サッカーを始めた。1916年3月、滋賀師範学校卒業。その後、東京高等師範学校に入学し、蹴球部(現:筑波大学蹴球部)に所属。
1920年3月、東京高等師範学校卒業。1923年3月、京都帝国大学理学部を卒業後は数学者としての道を歩み、大学教授を歴任。また、1938年6月より新田純興や山田午郎らと共に大日本蹴球協會 (現:日本サッカー協会) の評議員に選出された。
1947年、大阪市立女子専門学校の初代校長に就任した。定年退官後は、予備校講師として長く教鞭を執った。
1996年12月19日、大阪府藤井寺市で肺炎により99歳で死去した。2013年現在、消息が判明している日本代表に選出された選手の中では最長寿記録である。

このように日本代表初ゴールと最長寿という二つの記録の保持者だ。さらに、数学者や教育者として長い経歴を持ち、『受験資料代数の鍵幾何の鍵:附・模擬試験問題』(大阪高等予備校出版部、1926年)、『代数幾何の鍵: 受験資料附・学習用問題集模擬試験問題集』(大阪高等予備校出版部、1927年)などの著作がある。

同じく第3回極東選手権のサッカー日本代表チームメイトの佐々木等 (マラソンにも出場) は、次の第4回極東選手権では選手兼任監督として出場し、その後多くの大学の教授を歴任した。
また武井群嗣は、京都帝国大学を卒業して内務省に入省し、その後さまざまな任務を歴任し、山形県知事も務めた。
これは東京高等師範が設立当初から「教育の総本山」と称され、長らく近代日本の中等教育界に大きな影響力を与え続けたこと、また日本の学生スポーツの先駆け的な存在であったことを示している。まさに文武両道だ。

今では考えられない選考経緯ではあったが、今や強豪となったサッカー日本代表の原点として相応しいチームだったと思う。

 



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