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以前このブログで日本の博物館のルーツとして湯島聖堂博覧会と京都博覧会を紹介し、その中で政府主導の博覧会である「(第1回) 内国勧業博覧会」が1877年9月に東京の上野公園で開催され、全国各地の特産品が紹介されたことを記した。
その内国勧業博覧会では、来場者は気に入ったものがあれば購入することもできたので、博覧会であると同時に買い物の場であったと言うことができる。
そして博覧会の終了後に、出品者から「売れ残った展示品を地元に持ち帰るのは大変なので何とからならないか」という声が出て、翌1878年に誕生したのが「東京府立第一勧工場」である。
その後短期間に各地に拡がった「勧工場 (かんこうば)」について、以下の文献を参考にしてまとめていきたい。

ショッピングセンターの原型・ 勧工場の隆盛と衰退 南 亮一 法政大学イノベーション・マネジメント研究センター 2020円11月11日
http://riim.ws.hosei.ac.jp/wp-content/uploads/2020/11/WPNo.234_Minami.pdf

「勧工場」 はディベロッパーが開発した建物に多くの店が出店する形態であり、現在のショッピングセンターの原型と位置づけられている。主な特徴として以下を挙げることができる。
(1) 品揃え:美術品・工芸品・雑貨を中心に多岐にわたる品揃えがされていた
(2) 大規模店舗:40以上の出店、最大の「帝国博品館」では67の出店があった
(3) 陳列販売:当時は来客の求めに応じて店奥から商品を取り出す「座売り」が一般的だったが、陳列されている商品を自由に見て回ることができた
(4) 正札販売:明示された固定価格での販売が導入された
(5) 娯楽施設要素:例えば第一勧工場は庭園・池・噴水を備え、休憩所で茶菓子を楽しむことができた
(6) 土足入場:当時は道路状況が悪く下足を脱いでの入場が一般的だったが、土足入場ができるように変更された

いずれも現在では当たり前の内容だが、百貨店の誕生前の当時としてはいずれも画期的なもので、勧工場によって日本人は初めてショッピングを楽しむということができるようになったと言える。

「東京府立第一勧工場」 は現在の千代田区丸の内の永楽ビルのあたりにつくられた官営の勧工場 (後に民営化され「東京勧工場」となった) だが、その後民営の勧工場が多く設置された。特に京橋区の銀座界隈にはで10店近い勧工場が営業した。それまで銀座は商業地としてはあまり人気がなかったが、その銀座を繁華街としたのは百貨店より前の勧工場であった。
また他の地域にも勧工場は広まり、東京以外の大都市でも設立され、大阪では心斎橋や千日前などに設置された。大阪では「勧商場」とも呼ばれた。

明治時代後期の浅草の絵葉書 (1907年頃、白黒写真に絵師が採色したもの) には、「共栄館勧工場」「梅園勧工場」「東洋館勧工場」が写っている。



明治の時計塔(東京)梅園館勧工場と共栄館勧工場
http://www.kodokei.com/ot_014_e.html

梅園館勧工場 時計塔
二階建て木造建築の屋上の洋風小型時計塔の外観は円錐形の屋根を持ち、 ローマ数字三尺の文字板は塔屋の二面に取り付けられ他の面は窓、 その下部周囲には回廊がめぐらされていたという。梅園館は大正10年(1921年)ころまで営業を続けたのち廃館、建物は同12年の関東大震災で焼失したが、 勧工場としては東京に残った最後の数館の一軒で有ろう。
共栄館勧工場 時計塔
梅園時計塔が設置されて間もなく、明治27年(1894年) に程近い並びにこの共栄館勧工場時計塔が建てられた。 場所柄、これらの勧工場にはからくり人形や派手なイルミネーションを施し呼び物となって盛業を極めた。


東京の勧工場で最後発かつ最大だったのは、1899年に汐留川のかかる新橋の袂 (現在の新橋駅近く) にできた 「帝国博品館」 であった。銀座煉瓦街にまじむ洋風の建物で屋上には時計台が設けられ、銀座を代表する風景となった。店内には洋品店、呉服店、雑貨店のほか、コーヒー店、理髪店、写真館など飲食・サービスの提供もされた。



このように市民にショッピングの機会を提供し、まちづくりに貢献した勧工場だが、急速に衰退した。1902年に東京に27あった勧工場は10年後に8に減ってしまった。その理由として以下が挙げられる。
(1) 商品や店員の質の低下
老舗や有名店の出店は自前の店を持っており、勧工場は店舗を持たない弱小業者の集まりとなった。また店員の充分な教育がなく印象を悪化させた。
(2) 呉服店系百貨店の成長
三井呉服店、大丸、そごうなどの呉服店が、武家相手の商いから百貨店への転換を行い、売り場の近代的な管理・運営により成長した。
(3) テナントの経営力不足
百貨店と比較し、勧工場には管理・運営のノウハウや、仕入れを支える流通・物流の機能がなかった。

この流れの中で 「帝国博品館」 も百貨店化を決断し、1920年にシンボルだった時計台を捨て4階建てに増築、エレベーターを設置、そして店名を「博信百貨店」に変更した。
しかし1923年の関東大震災で全焼し、その後廃業してしまった。

「帝国博品館」「博信百貨店」は現在では「博品館劇場」「博品館TOY PARK」として営業している。歴史のある「博品館」の名を冠するのは素晴らしい。

博品館TOY PARK 博品館について
https://www.hakuhinkan.co.jp/toypark/%E5%8D%9A%E5%93%81%E9%A4%A8%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/

1899年創業。前身は、帝国博品館勧工場。博品館の名前は、明治から昭和の初めまで「博品館勧工場」という銀座の名物として親しまれていました。他の勧工場がみな二階建てであったのに対し、博品館は三階建てに時計塔までついた大きな建物で、上り下りは普通の階段ではなく螺旋状の通路をめぐり歩く構造でした。
その時、日本で初めて「百貨店」ということばを使い、「百貨店」という新しいことばは博品館によって作られたと言われています。関東大震災後は百貨店営業を断念しておりましたが、創業80周年を記念して、1978年10月、現在の10階建てのビルを新築し、8階から10階を「博品館劇場」としました。
その後1982年9月に物販部門が玩具専門店の「博品館TOY PARK」としてオープン。現在は地下1階から4階までおもちゃをはじめ、ぬいぐるみ、ゲーム、ドール、バラエティーグッズなど、お子様から大人の方までの遊び心を満たすアイテムを約20万点取り揃えています。


豊富な品揃え、陳列販売、正札販売、娯楽要素など現在では当たり前に感じているショッピングのルーツ、そして銀座をはじめとした繁華街の礎となったのは、僅か20年余りだけ隆盛した勧工場であったことをよく覚えておこう。


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