急行「いなさ」

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鉄道が好きになった訳

2022-11-26 09:06:16 | 鉄道模型

第3回 鉄道玩具を買ってもらった

 小学校2年の正月 お年玉の頃と思うが、家族でデパートに行った。

何を思ったのか 母が好きなものを買ってやると言った。私は目を付けていた物を指さした。

それは当時の花形 特急「こだま」でした。

父が高価だとか何とか言ったようだが、母が「この子は 欲しがらないから・・」と言ったのを ハッキリ覚えている。

今まで物をねだったことが無い子・・と言ってる様だった。私の実家は 親におねだり出来る雰囲気は全くなかったのです。

こうして 米澤玩具(その後 セガトイズ)の 特急「こだま」(円形に組み立てるガラレール風の線路とのセット)を買ってもらったのでした。

車体の底蓋を開け 単1乾電池を2個入れて線路に乗せ 車体の裾から出ている棒状のレバーを倒すと発車しました。

窓は透明ではなく白で 乗客の人影が黒くシルエットになってるのが素敵でした。

 

3年生になり 先生がクラスの皆に 電池で動くおもちゃを持って来るように言った。私は前日に試運転をして、意気揚々と学校に持って行った。

ところが皆の耳目を集める中 ウンともスンとも動かなかった。先生は接触が悪いんだろうと言った。私はヒーローには なれなかった。

前日の試運転で電池が放電してしまったのかもしれない。先に書いたように 親に遊ぶための電池を買ってくれと 言えるような雰囲気の家ではなかったので、こっそり懐中電灯の電池を取り出して走らせていたのでした。

ゲージ (レールとレールの間隔)を計ってみると 27mmちょっとでした。

 60年前のブリキの玩具なのに ほとんど錆てないのに驚き。運転士が乗務してます。

 

 

 車番の モハシ20003と 米澤玩具のトレードマーク MEDE IN JAPAN

しかし モハシ20は存在しなかった。あったのは 中間車のモハシ21だが、もちろん先頭車ではなかった。

でも60年前の玩具だから どうでもいい所。

 


鉄道が好きになった訳

2022-11-23 07:45:55 | 鉄道模型

第2回 鉄道模型との出会い・・それは突然だった

 

実家の近くに 1歳年上のH.H君が住んでいた。彼の父親は高校の生物の先生で 科学には明るかったのだろう。母親も先生の様だった。

まだ私が幼稚園か小1の頃だった。天気が良いある日のこと 彼の家に遊びに行くと、縁側で小判型の線路を敷いて 鉄道模型を模型を走らせていた。車番は覚えていないが EB58だったと思う。

一瞬にして 虜になってしまった。いつか自分も遊んでみたい、そして大きくなったら絶対に手に入れるのだと誓った。

当時の私の小遣いは1日わずか5円、駄菓子を買ったら終わりだった。グリコのおまけつきキャラメルが10円の頃でした。

貧乏は絶対イヤだと思った。

 

彼とは因縁があり 私は就職すると初任地は北九州だったが、福岡市内に新店舗を開設すると言うので、1年4か月で転勤。福岡市内真っただ中 九電本社横の独身寮へ入った。すると彼が居たのである。年齢は1歳年上だが 2浪したようで会社では私が1年先輩になっていた。

ある時私の部屋へ招き入れNゲージを見せながら、あなたが遊んでいたHOに刺激を受け鉄道模型を始めたと言ったが、彼は自分が幼少の頃 鉄道模型で遊んでいたことをすっかり忘れてしまっていた。寂しいけど 世の中 案外こうしたものかもしれない。

彼の家の通りを挟んだお宅は 長崎大学付属中学校のS田教頭先生のお宅だった。先生はエンジン付きの大型の船舶模型などを作っておられた。

古くから鉄道模型趣味(TMS)を読んでる方は知ってると思うが 後に長崎から奈良県へ転居され「京都トンネル模型倶楽部」を作られた 故・山城正一先生は、この方の後任として、付属中学校の教頭になられた。付属中学校の校長は大学の学長だそうで 実質 校長先生になるようです。

H.H君の父親と山城先生とは 何らかの繋がりがあったのかもしれない。

今日は ここまで


鉄道が好きになった訳

2022-11-21 11:00:12 | 鉄道模型

第1回 私が鉄道や 鉄道模型が好きになった訳

私の母は長崎県の島原半島の北に位置する「北目」と言われる地区の出身、一方父は南に位置する「南目」の出身。キタメ、ミナンメと発音する。~目と言うのは 方面の意味である。

 両親とも教師をしていたので 夏休み冬休み春休みには3~4日休みが取れ 主に母の実家に帰省した。国鉄の自宅最寄り駅からディーゼルカーに乗り 諫早駅で島原鉄道に乗り換えた。後年 島鉄が国鉄に乗り入れたので 乗り換えなしで行けるようになった。

比較的大きな家で 裏には納屋があり その隣には便所と風呂(五右衛門風呂)があった。いずれもドアは無く 風呂の横 本来ならドアがあってしかるべきところからは 田圃と200m位先に島原鉄道の線路が見え、その先は広大な干拓地で2~3㎞先の堤防まで田圃や畑が広がっていた。

時折プワーン・プワーンと踏切ごとに威勢よく警笛を鳴らしながら 島鉄のディーゼルカーが走っているのが見え、昼過ぎには C12牽引の貨物列車も走っていた。

これが私の鉄道原風景です。

ついでに母の実家について書いておきます。納屋の右端には井戸があって 夏に母から井戸を覗いてみろと言われ覗き込むと スイカが浮いていた。冷蔵庫の無い時代、こうやって冷やしていた。その横には大きな石臼がありました。ある時母が茶碗に炒った大豆を入れて来て 石臼の穴に入れて、私に臼を回せと言った。臼から黄色い粉が出てきた。

知らなかった、美味しい「黄な粉」は大豆だったのだ。

納屋の左端は 先に書いたように便所と風呂だったが、とんでもない便所だった。幅1m長さ1.5m位の穴が掘ってあり 幅20cm位の板が2枚 少し間隔をあけて渡してあるだけ。外から見えないように竹ひごで編んだ「すだれ」が1枚 上から吊るしてあった。

「小便」は男の特権で庭先に勢いよく飛ばしたが 大の方は決死の覚悟で臨まなければいけなかった。穴には既に相当量の便 良く言えば下肥が溜まっていて、白いウジ虫が這いまわり 時折ペチャとか シムシムとか音を立てていた。

渡された2枚の板にそれぞれ右足左足を乗せ 10cmずつシズシズと前へ進み 中央で しゃがんだ。この穴の深さはどれ位だろう、落ちたらどうしよう、クソまみれになる。などと考えながら 板と板の間に 落下させたのでした。

今日は ここまで。次へつづく、たぶん。

 


がん、の本

2022-11-20 12:43:06 | すい臓癌治療

「がん」ー4000年の歴史ー

  シッダールタ・ムカジー著  田中 文 訳  早川書房

と言う、ピュリッツァー賞受賞作品を読んだ。文庫版で上下800ページを超す大作です。

巻末の解説に書いてあるように 「がんの伝記」みたいな本です。

4000年も昔から がんが存在してたとは私自身知らなかった。

みんなも名前くらいは知っているヒポクラテスに 「治療法はない」とも言わしめてる。

がんの治療法や薬の開発に多くの医師や研究者が苦労していたと同時に 進んで治療にかかわり命を落としていった多くの患者たちが居たのも忘れてはならない。

未完とあるように まだまだ「がん」との戦いは終わってないのだ。

先日ネットに 膵臓癌に 「オプジーボ + 化学放射線療法」の第3相治験を始めると出ていた。効能追加なので成果があれば 早く保険適用になると思われる。主治医に話すと 実は自分もこの治験研究のグループに入ってると言う。少し将来に明かりが見える。

ネットに出ていたが治験者の募集の条件に 既に化学療法や放射線療法を受けてない人、転移が認められない人、等とあったので当然 私は治験は受けられない。

先生 今後も最新の情報、お願いします。

もう一つ、新聞に出てたのが、ras遺伝子の研究についてだった。

がんは遺伝子の変異が積み重なったものですが、膵臓癌のほとんどは Krasなどのrasグループの遺伝子変異が関わっていて まだこの遺伝子について解明されて無いようです。このrasについて研究が進んできたとの事で 解明されれば薬の開発も大きく進むだろうと書いてあった。薬の開発までには未だ何年もかかるであろうが 一つの明かりです。


膵臓癌の治療

2022-11-12 07:31:28 | すい臓癌治療

昨日は 抗がん剤投与の日だった。点滴前のステロイド剤のカプセル服薬と制吐剤の点滴のせいで、昨夜の夕食は食欲増進でいつもの2割増し位の量を食べた。不眠も出るので 夜は寝つきが悪い上に未明に目が覚めて眠れなくなる。いつもは3時くらいから眠れなくなるが 今回は4時だった。ネットサーフィンなどをして このブログを書いている。

先ずはご報告。昨日の血液検査の結果です。腫瘍マーカーCA19-9は値が 1468.0から1125.0へ下がっていて やれやれと言ったところだが、CEAの方は逆に 9.9から 10.8へと上昇していた。基準値はそれぞれ、37と5 です。

値が高いのは当然ですが、なぜCA19-9が下がり CEAは上がったんだろう。主治医に聞き忘れたので 次回聞いてみよう。

造影CT検査を12月9日に予約してきた。医学に関する本を読むと 腫瘍マーカーの値より がんの大きさが重要だと書いてある。前回の9月のCTによる画像診断では心持ち大きくなっていると言われたが、12月の画像診断が楽しみだ。化学療法では がんが消えたり小さくなったりすることは ほとんど無いようなので、大きくなって無ければヨシとしよう。私は肺にある転移巣が 1度だけ小さくなっただけです。

しかし これだけITが進歩してるというのに、CTの画像から「あなたのがんの大きさは いくらです」と何故正確な大きさが出ないんだろう。主治医の先生が 心持ち大きくなったとか 前回と変わりませんね・・とか、感覚で言ってる感じがする。看護師さんに聞くと 固形がんとは言っても ブヨブヨしてるからじゃないかな、と言っていた。

ニュートリノの観測で世界をあっと言わせたスーパーカミオカンデを作った戸塚洋二さんは 著書「がんと闘った科学者の記録」で 医者が分からないならとCTの画像データを貰って 大きさの変化がまず起こらない骨を基に 自分のがんが成長してるのを冷静に記録している。大きさの誤差20%と書いてはおられるが、この本が出て16年にもなるのに 未だに多きさが測定できないのは素人目にもおかしく感じる。 

大腸癌だった戸塚さんの 最後のブログは「今日 病院に外来で来ましたが、残念、そのまま入院になりました。」で終わり、8日後に亡くなられた。

ノーベル賞に一番近い日本人と言われた戸塚さん あと数年生きてノーベル賞を受賞して欲しかった。

 

 模型の新作 キハユニ17

実車2両の内 キハユニ17 2は 新潟震災の際 落下してきた陸橋の下敷きになり 真っ二つに折れた悲運の車両です。