瞑想やマインドフルネスといった言葉も、かなり一般的になってきたと思う。
もっとも実際に瞑想を日課にしている人は少数派であろうが、折しも昨今は、「先の見えない不安」が蔓延しており、瞑想に取り組む動機は十二分にあるのではなかろうか。
私自身は站椿のような立って行う瞑想を、何年間か習慣にしていた。
正確に何年やっていたか、いつ頃からやらなくなったのかは記憶が定かでないが、確かに効果があったと思う。
筋トレやランニングのような運動にも瞑想と同じ効果があるという説があって、私もその通りだと思うし、だから座るか立つかの姿勢で静止しているタイプの瞑想は日課から外れてしまった。
ただ、静止するタイプの瞑想を一定期間行うことで、その効果を実感しておけば、筋トレやランニングなどの運動で得られる瞑想的な効果も深くなると思う。
ところで、静止して行う瞑想の効果は、筋トレやランニングなどの運動に含まれる瞑想とどう違うのだろうか。
私見ではあるが、正に「先の見えない不安」への対応法を練るなら、静止して行う瞑想の方が確実だと思う。
細かい表現になるが、「対応力」ではない。
不安に対して力で抵抗するのではなく、不安のボリュームを適切に制御するということだ。
不安や痛みは必要なものであって、全く感じないのは寧ろ危険である。
かといって不安や痛みに囚われて快適な日常が送れないのも困るので、その匙加減の練習法として、坐禅や站椿といった静止するタイプの瞑想は優れている。
まあ瞑想の究極の目標としては「悟り」なんぞがあるのだろうが、これは私もよく分からないので棚に上げておこう。
で、瞑想をやるのなら是非お勧めしたいコツがある。
それは、瞑想が「いつ終わるのか分からない」状況で行うことだ。
瞑想の時間の長さについては、テレビの健康番組で紹介されるようなマインドフルネスなら数分ぐらいだし、坐禅なら45分とか、かなりの幅があるわけだが、これは各人の事情に合わせて調整すれば良いと思う。
ただこの時、残り時間が分からないようにする方が無難であろう。
スマホでも100円ショップのキッチンタイマーでもいい。
時間をセットして瞑想を開始したら、タイマーは自分の足元なり背後なりに置いて、数字を見ないようにするのだ。
「いや、普通はそうするでしょう」という方はそれでよろしいのだが、せっかちな人や不安に囚われている人は、ついついタイマーの数字を凝視してしまうのではなかろうか。
それでは瞑想というより迷走、正に「心猿意馬」である。
残り時間とか、効果が表れるまでの期間とか、そういうことを気にしないようにするのが、よく言われる「今、ここに注意を向ける」瞑想への第一歩なのだ。
だから、例えば線香や蝋燭をタイマーにするような瞑想は、存外難しいのではなかろうか。
あれは炎と一体化し、気が付いたら「あ、炎が消えた」となるから意味があるわけだが、それが出来ればもう玄人である。
線香や蝋燭の長さばかりを気にした挙句、かえってストレスが溜まって「瞑想なんて無理」というパターンは少なくなかろう。
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