母、中川原典子さんが12月7日2時30分に亡くなった。享年87。八王子にある特別養護老人ホームで衰弱による老衰だった。
典子さんの父は新潟で海運業を営んでいた小越徳松。大家だった。母は小越ツナ。釣り合いの取れた家の出で、身の回りの世話をしてくれる女中が何人もいた。典子さんは昭和12年10月26日に生まれたとされているが定かではない。子供のできなかったツナは、ある日女の子をもらってくる。それが典子さんだった。自分の子供として出生届を出す。第二次世界対戦が始まると徳松の海運会社は海軍に接収される。中国大陸と本土と行き来し物資を運んでいた輸送船は、連合軍の攻撃で撃沈。遺骨も残らず戦死、間もなく終戦になる。ツナは徳松の築いた財産が尽きると、人のつてを伝い、母子ともに小樽へ引っ越しをする。典子さんは石原慎太郎や同級生の裕次郎の通う小樽稲穂国民学校に通うものの鮮魚商に丁稚(でっち)に出される。典子さんは小学校4年生までしか学校に通わせてもらえなかったと残念そうに話していた。ツナは典子さんの稼いだ金を芝居などの遊興費に充てていた様で、子供心ながら明日のご飯の心配をしながら見ていたという。
函館に移り住むと、スズランなどを観光客に売り歩いていたが、ツナが原価を無視して「おまけ」をするので、利益を出すことができなかった。アイスクリームを製造する「カナヤ」に就職した典子さんは慶作さんと出会い18歳で結婚する。函館で1男1女をもうける。長男妊娠時に虫垂炎を患ったが胎児に影響しないよう麻酔なしで手術をしたという。長男長女ともに帝王切開で出産する。
出資した勤め先が倒産すると一新上京、ツナと別居する。慶作さんは同郷のI氏と事業を起こす。1男(=私)を帝王切開で出産する。かつら製作会社、菓子問屋、電化製品の組み立て、シルクスクリーン印刷などパートタイマーで仕事をしながら家計を助けた。八王子に念願の一戸建てを建てると、わずかな庭に芝を植え、庭いじりを楽しんだ。パートタイマーの仕事をしながら住宅ローンを返済し、長男を私立大学に通わせた。長女を専門学校に通わせた。次男は都立高校を出ると就職し、子供たちは皆社会人になっていった。埼玉で伴侶と暮らしていたツナを伴侶が入院したのを機に呼び寄せて同居する。晩年慶作さんが共同で起こした会社で夫婦一緒に働いた。ツナが倒れ入院すると八王子にお墓を探しはじめ購入。無一文で上京した典子さんは慶作さんともに一戸建ての家を建て、3人の子供を成人させ、お墓まで用意をした。我慢強く、堅実に生き、実直に生きた。
1989年次男の私は交通事故で重度障害を負い心痛めた。1996年ツナが死去する。まだ子供だった典子さんに「お前は本当の子供じゃないから優しくないんだ」と突然打ち明けたツナを、献身的に看病し、立派な葬儀で送り出した。次男は結婚して心待ちにしていた孫に恵まれ溺愛した。2016年思い立ったように、子供の頃に過ごした小樽に行きたいと願い、8月に次男夫婦と北海道旅行をする。小樽市立稲穂小学校に行くが、面影もなく寂しい顔をしていた。小高い丘にある小樽公園から眼科を眺めると、昔見た景色が広がっており、しばらく眺めていた。
その後アルツハイマー型認知症を発症する。ある日死んだツナが家に来ていると電話をかけてきたので、一緒にお墓参りに出かけ、「良い葬儀だったね」と気づかせる。慶作さんと一緒に働いていたことを忘れる。ごみの分別ができなくなり、回収されないごみ袋が庭にあふれたり、冷蔵庫の中で物が腐ってしまったりした。長男と暮らしていたが家の中でトイレがどこにあるかわからなくなり、部屋で失禁するようになると、特別養護老人ホームに入所することになる。飲み込む力が衰え、通常食事から流動食になった。それも難しくなると、水だけになったが、やがて水も飲みこめなくなった。真偽はわからないが延命措置は望んでいなかったため、衰弱し老衰で永眠。身を切るような波乱の人生だった。
コロナ感染で亡くなった慶作さんとは違い、通夜と告別式があり、火葬場で最後のお別れができた。収骨もできた。兄は典子さんの遺骨を次男の私に託した。
信州までの帰路は、高校来の友達に頼み、家族、遺骨ともども車で送ってもらった。感謝。