中川原慶作さんが8月2日、亡くなった。
入所していた施設で、コロナウイルスのクラスターが発生し感染。翌朝目を覚ますことはなかった。直接の死因は心不全によるものと推定。
函館
昭和9年9月24日、父三蔵と母カネの3男として北海道函館市に生まれる(長男・次男・長女・本人・次女)。就職したアイスクリーム工場(カナヤ)で働いている時に、典子さんと出会い結婚。2男1女(長男・長女・次男)を授かる。お店を持たせてもらえる約束で勤めていた会社に出資するが、勤め先が倒産。一文無しで東京に上京する。
職人
同郷のI氏のもと製麺会社を作る。麺だけでは勝ち残れないので製麺機械を自分で改造して餃子の皮を作る。国内では初めてとなる餅粉入り餃子の皮を製造しヒットする。大手スーパー(西友)で取り扱いを始め、国内第一位の餃子の皮メーカー(宝食品)になる。毎夜遅くまで仕事に打ち込んだが、夏の休日には子供たちを海水浴へ連れて行ってくれた。無一文から八王子に一戸建てを建てる。I氏の使い込みによって会社が倒産。新しく会社を興す(ダイヤフーズ)。以前の取引先へ供給を再開。モランボンから融資を受け事業拡大。モランボンと考えの違いから退社。三度会社を興す(サンコール)。陳健一氏など著名な料理人のお店へ飲茶や中華の皮をおろすものの、販路が広がらず退職。事業を手放す。
顧問
慶作さん改造、餃子の皮製造機のベースになった製麺機の機械メーカー(株式会社豊製作所:名古屋)は、餃子チェーン店(餃子の王将)向けに中華の皮製造機械を制作販売しており、慶作さんは中華の皮製造知識を高く評価されて、70歳過ぎまで同会社に開発顧問として招き入れられる。
晩年
1女1男の孫に恵まれる。孫たちも夏にはプールや海水浴へ連れて行きかわいがり、孫から慕われた。晩年は耳が遠くなり、電話での会話が難しくなる。記憶力も衰え、食事制限がうまくゆかず、糖尿病が悪化。心臓や血管がもろくなり、2022年脳梗塞で入院。退院後に入所した施設でわずか19日目にコロナウイルスに感染。翌日に臨終。享年87。納棺、火葬に誰も立ち会うことができず、帰宅したのは臨終6日後で、血縁者だけの寂しい通夜・葬儀であった。
先祖
清和天皇の第六皇子、貞純親王を祖とする源満仲(多田源氏の祖)、土岐氏の末裔。源頼朝の命による奥州平泉征伐へ同じ多田源氏の流れをくむ南部氏と共に出兵。その後南部藩の家老として東北を治める。分家を繰り返し、氏を清川、中川原に改めながら明治維新を迎える。北海道開拓で函館に渡航。