城犬のおいど

城巡りと、各地で出会った食事を個人的な感想を添えてお城巡りを紹介しています。

武蔵国 八王子城

2024-08-31 06:19:20 | 城館
武蔵国 八王子城 <ハチオウジジョウ>
別称武州八王寺城
城郭種別城郭
縄張り連郭式山城
築城者北条氏照
築城年1587
廃城年1590
主な城主北条氏
指定史跡国指定
住所東京都八王子市元八王子町
[Google] [地理院地図]
城址碑あり
現地案内板あり
スタンプ八王子城跡ガイダンス施設 09:00~17:00
現存建造物なし
復元建造物なし

概要
八王子城跡は、戦国時代の終わり頃(16世紀後半)、北条氏照によって築かれた山城です。広大な産地、その山麓、そして城山川に沿った谷間など変化に富んだ地形を巧みに利用し築城されています。主要部は山頂部に本丸を構え、東を城の大手(表口)、北を搦手(裏口)としています。
八王子城は、戦国時代を代表する城跡として、現在訳158haの範囲が国の史跡に指定され、保護されています。
※現地看板より

攻城記録



大手の門跡

昭和63年(1988)の確認調査でその存在が明らかになりました。
以前から八王子城の古図などで、このあたりに門等の施設があることは予想されていました。
発掘された礎石や敷石などから、いわゆる「薬医門」と呼ばれる形状の門と考えられています。
※現地看板より


御主殿へは、城山川上流域を越えて向かうため、このあたりに橋がかかっています。しかし、当時の正確な場所や構造、名称はわかっていません。
これまで使用していた「曳橋」という名称は、江戸時代後期の地誌「武蔵名勝図会」の記載によるものです(文政3年脱稿:1820)。
すぐに壊すことができる簡素な橋が架けられていたと考えられています。今回整備した橋は、当時の復元としてではなく、見学者が御主殿跡へ行くための通路として城山川に架けたものです。
※現地看板より

築城当時の石垣
この石垣は、土の中に400年間くずれずによく残っていたので、検出したそのままの状態にしてあります。戦国時代の石積様式を示す全国でも貴重なものです。
その特徴は、この城山山中から産出する砂岩を利用して、ひとつ一つていねいに積み重ね、その隙間には小石を詰めて全体として強固な石垣としていることです。
また、石垣の勾配が急なこと、石垣の裏側にたくさんの砕いた石を入れていることも特徴です。
※現地説明板より


御主殿虎口
城や曲輪の出入口は虎口と呼ばれ、防御と攻撃の拠点となるようにさまざまな工夫がこらしてあります。
御主殿の虎口は、木橋をわたった位置から御主殿内部まで高低差約9mを「コ」の字形に折れ曲がった階段通路としていることが特徴です。
階段は全体で25段、踏面が平均1m、蹴上が36cmで、約5mの幅をもっています。途中の2か所の踊り場とともに、
全面に石が敷かれているのは、八王子城独特のものです。
※現地説明板より

櫓門跡
この踊り場からは、4つの建物礎石が発見されました。
両側の石垣の下に、敷石の面より10cmほど高くなっている大きな石がそれです。礎石の間は、東西(桁行)約4.5m、南北(梁間)3.6mあります。
想定される建物は、通路の重要な位置にあることから、物見や指揮をするための櫓門であったかもしれません。また、礎石のそばには、排水のための石組側溝も発見されています。
この礎石や石組側溝、大部分の石垣や敷石は、当時のものを利用しています。
※現地説明板より



主殿
主殿は中心となる建物で、政治向きの行事が行われたと考えられます。
広さは15間半×10間(19.4m×19.8m)で、折中門とよばれる玄関から入ります。
大勢の人が集まる「広間」や、城主が座る「上段」などがあります。
建物は平屋建てで、屋根は瓦ではなく、板葺きか檜皮葺きと思われます。
※現地説明板より



敷石通路

会所の建物に沿って幅4.2m、長さ19.2mの範囲に石が敷かれています。
敷石通路には2本の溝を伴っています。北側の溝は会所の雨落溝と考えられますが、南側の溝の性格は不明です。
この敷石通路は会所に伴うもので、何らかの儀式に使われたものと思われます。
※現地説明板より


御主殿の滝
天正18年(1590)6月23日の豊臣秀吉の軍勢による攻撃で落城した際に、御主殿にいた女性や子ども、将兵たちが滝の上で自刃をし、次々と身を投じたといわれています。
その血で城山川の水は三日三晩、赤く染まったとの言い伝えが残っています。
※現地看板より




金子丸
金子三郎左衛門家重が守っていたといわれている曲輪です。
尾根をひな壇状に造成し、敵の侵入を防ぐ工夫がされています。
※現地看板より


標高460mの深沢山頂に設けられた本丸を中心に、松木曲輪、小宮曲輪などの曲輪が配置された要害部は、籠城のための施設と考えられます。
急峻な地形を利用した山城は、下からは攻めにくく、上から攻撃できる守りには有利な構造となっています。
天正18年(1590)旧暦6月23日、豊臣秀吉の命を受けた前田利家、上杉景勝、真田正幸らの軍勢に加え、降参した北条勢を加えた数万の大軍が八王子城に押し寄せました。一方、小田原に籠城中の城主北条氏照を欠いた留守部隊は、必死に防戦しましたが、一日で落城してしまいました。
激戦の末、守備した北条方はもちろんのこと、攻めた豊臣方にも多くの犠牲があったようです。
※現地看板より

本丸跡
城の中心で、最も重要な曲輪です。
平地があまり広くないので、大きな建物はなかったと考えられています。
ここは横地監物吉信が守っていたといわれています。
※現地看板より

松木曲輪

中山勘解由家範が守っていたといわれている曲輪です。
中の丸とも呼ばれていました。
近くには、「坎井」と呼ばれる井戸があります。
天正18年(1590)6月23日に前田利家の軍勢と奮戦しましたが、多勢に無勢で防ぎきれなかったといわれています。
この時の家範の勇猛ぶりが徳川家康の耳に入り、その遺児が取り立てられ、水戸徳川家の家老にまでなりました。
※現地看板より

山上からの眺望
ここからは、高尾山方面を一望することができ、晴れていれば富士山が見えることがあります。
さらに八王子神社から階段を降りた先のちょっとひらけたところからの眺望はなかなかです。
八王子市内一望でき、冬の空気の澄んだ晴れた日には新宿新都心や池袋のサンシャインビルまで見ることができます。
※現地看板コラムより

城跡茶屋

おしるこ

2023/12最終訪問

周辺地図

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