城犬のおいど

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讃岐国 高松城

2024-08-07 07:16:07 | 城館
讃岐国高松城 [タカマツジョウ]
別称玉藻城
城郭構造輪郭式海城
築城年1590年
廃城年1869年
指定史跡国指定
住所高松市玉藻町2-1 [MAP]
スタンプ設置場所玉藻公園管理事務所
御城印販売場所

概要
天正15(1587)年に讃岐1国を与えられた生駒親正は、翌16年「野原」と呼ばれていた当地を「高松」と改め、高松城の築城を開始しました。天守も生駒時代に造られており、天守石垣からは生駒家の家紋が彫られた石材が見つかっています。生駒氏の治世は寛永17(1640)年の生駒騒動による転封まで4代54年間にわたりました。その後の寛永19(1642)年に松平頼重が入封し、寛文10(1670)年から天守の改築、東ノ丸・北ノ丸の新造といった事業を実施しました。2代藩主頼常の代には、月見櫓や艮櫓などの建造、大手の付け替え等が行われ、概ね現在の高松城の形が出来上がります。その後、明治3(1870)年に廃城されるまで、11代にわたり松平家の居城として、東讃岐における政治の中心的役割を果たしてきました。明治期に入ると、外堀は埋立てられて市街化が進み、海に面していた城郭の北側も埋立てられます。また、中堀よりも内側は兵部省(のちの陸軍省)の管轄となり、城郭建物の多くは破却され、天守も老朽化を理由に明治17(1884)年には解体されています。明治23(1890)年に再び松平家に払下げとなったのちに、天守の解体された天守台には初代藩主頼重を祀った玉藻廟が建てられました。昭和29(1954)年に高松市の所有となったのち、昭和30(1955)年には国史跡として指定され、玉藻公園として市民に開放され、現在の姿になっています。
※現地看板より

駐車場(下馬所)


大手(表門)
高松城の大手(表門)は築城当初南側にありましたが、寛文11年(1671)から始まった松平頼重・頼常による東ノ丸・北ノ丸の新造に伴い、城の南東に移されました。現在駐車場のある場所はかつて下馬所であり、高松城へ登城する人はここで馬を下りて徒歩で入っていきました。城内に入る橋は旭橋と呼ばれています。橋は堀に対して斜めになっており、敵の直進を防ぎ、側面から攻撃できるような仕組みになっています。江戸時代には木製でしたが、明治45年(1912)に高松松平家第12代当主頼壽により石橋に架け替えられました。橋北側の親柱に頼壽による「旭橋」、南側に同夫人昭子による「あさひばし」の文字が掘り込まれています。橋を渡ると、旭門と呼ばれる高麗門が見られます。この門を入ると、来訪者を威圧するかのような切石の石垣による桝形(石垣で囲まれた空間)となっており、左手に曲がるとかつては太鼓門と呼ばれる櫓門がありました。また、桝形の北側には石垣をトンネル状に構築した埋門を設けています。
※現地看板より

太鼓櫓跡(旧東之丸艮櫓)

桜の馬場

桜御門跡
桜御門は、昭和19年に旧国宝(現在の重要文化財)に指定されることが内定していましたが、昭和20年の高松空襲で焼失してしまいました。
現在は、2022年に復元された桜御門(建物)があります。

鞘橋

天守台跡と二の丸を結んでいる唯一の連絡橋で、当初は欄干橋でしたが、松平氏の時代にこのような橋に作り替えられました。
※現地看板より

内苑御庭


鯛のエサやり体験
お堀の中を鯛が泳いでいます。

天守台

生駒親正が築城した当時の天守は、南蛮造りと言われるもので、三層四階の建物が天守台の上に建てられていました。



鉄門

三の丸から二の丸へ入る門としてかつて鉄門がありました。門の上部に長屋状の建物を両側の石垣に渡すように建てられた櫓門という形式の門です。その名の通り鉄板張りの門で、門の北側石垣の東端から約1mの位置に、鉄板のサビが縦方向に直線として残っており、この位置に門扉があったことがわかります。石垣解体修理に伴う発掘調査では、石垣の上部において豊島石と呼ばれる凝灰岩を組み合わせて作られた東西2.3m、南北1.3m、深さ80cmの床下収納状の施設が発見されました。石垣の盛土中から17世紀中頃の遺物が出土していることや、寛文2年(1662)の落雷に伴う火災により二の丸北部の建物が焼失し、建替えが行われた記録が残っていることから、火災に伴い石垣の積み直しも行われ、床下収納が設けられたことが推定できます。
※現地看板より







月見櫓

月見櫓は、松平氏入封以後新たに海面を埋め立てて作られた郭の隅櫓として延宝4年(1676年)2代頼常公の時代に、完成されたものです。ことに渡櫓は生駒氏築城による海手門を改修して建てられました。かつて、これらの櫓の外まで海であって、船からこの水手門を経て、直ちに城内へ入れるようになってたこところからみて、この櫓は海手出入りの監視防備のための隅櫓であったものとおもわれます。
※現地看板より
艮櫓跡
昭和42年(1967年)に旧太鼓櫓跡の現在地に移された。
 
中堀

地久櫓跡

2019/5訪問


 
 

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