土佐国高知城 [コウチジョウ] | ||
別称 | 鷹城・大高坂山城・大高坂城・河中山城・高智山城 | |
城郭構造 | 梯郭式平山城 | |
築城年 | 1603年 | |
廃城年 | 1871年 | |
指定史跡 | 国指定 | |
住所 | 高知市丸の内1-2-1 [MAP] | |
スタンプ設置場所 | 高知城天守窓口 | |
御城印販売場所 |
概要
高知城はもと大高坂城といい、南北朝時代には大高坂松王丸がここに砦を築いて南朝方に味方して戦った記録がある。
戦国時代の天正16(1588)年、土佐の国主であった長宗我部元親が岡豊城(南国市)から移ったが、豊臣秀吉が行った朝鮮へ出兵に備えるため、浦戸城(高知市浦戸)に居城を移した。期間が短く、その規模や構造は明らかでない。現在の高知城は、慶長5(1600)年の関ケ原の功績を認められて、土佐の初代藩主となった山内一豊によって慶長6(1601)年から築城され、本丸、二ノ丸が慶長8(1603)年に完成し、一豊が入城した。引き続き三ノ丸などの整備が行われ、慶長16(1611)年に完成した。享保12(1727)年、高知城の西側から出火した火事の火が燃え移り、追手門など一部の建物を残して焼失、再建には、宝暦3(1753)年と30年近い期間を要した。明治維新後、全国多くの城郭が取り壊されたが、高知城は、追手門と本丸の全建物が、取り壊されることなく残された。建物が壊された跡には、植栽が施されるなどの整備が行われ、明治6(1873)年に県立公園として広く開放された。高知城は、江戸時代の天守が残る12か所の城郭の一つで、高石垣を巡らす築城当時の複雑巧妙な縄張りを残されている。また、豪壮な木割りの追手門、規模は小さいながら優美な姿を誇り、南海道随一の名城とうたわれた天守、それに付随する本丸御殿をはじめとして、本丸の全建造物が完全な姿で残されているのは、全国でも高知城だけである。老朽化による破損が進んだことから、各建造物の解体修理に着手、追手門は昭和26(1951)年に、天守は同30(1955)年、その他の建造物は34(1959)年3月にそれぞれ竣工した。高知城の建造物は、昭和9(1934)年に国宝に指定されたが、昭和25(1950)年に文化財保護法が制定されたことに伴い、現在は15棟の建造物が重要文化財に指定されている。また、昭和34(1959)年には、史跡に指定されている。
※現地看板より
御馬場跡
当地は古絵図によると藩政初期には「侍屋敷」と記されていますが、中期には「御馬場」と記録されています。
平成17(2005)年に実施された発掘調査の結果、17世紀前半頃及び19世紀前半頃の、侍屋敷に関するとみられる遺構や、石組みの水路跡等が確認されました。また現在の堀の内側には土手状の遺構がのこり、かつて12間であった内堀の規模をうかがうことができます。
※現地看板より
石樋
高知県は全国でも有数の多雨地帯のため、高知城も特に排水には注意が払われている。石樋は、排水が直接石垣に当らないように石垣の上部から突き出して造られており、その下には水受けの敷石をして地面を保護している。
このような設備は雨の多い土佐ならではの独特の設備で、他の城郭では見ることのできない珍しいものである。
石樋は本丸や三ノ丸などを含め現在16ヶ所確認されているが、下になるほど排水量が多くなるため、この石樋が一番大きく造られている。
※現地看板より
山内一豊の妻の銅像
山内一豊の妻は、弘治3年(1557)生まれ。通称千代といわれているが、これを裏づけるたしかな資料はない。出身についても通説では近江国(滋賀県)浅井氏の家臣若宮友興の娘ともいわれている。幼い頃父を失い、17・8歳の頃一豊と結婚、貧しい暮らしの中で家を守り、戦いに明け暮れる一豊の出世を助けた逸話が残されている。中でも結婚の時持参した10両の金を出して一豊に名馬を買わせ、それが織田信長の目にとまって出世の糸口になった逸話は広く知られている。また、関ヶ原の戦い前に、笠の緒に縒りこめた手紙で関東にいる一豊に大阪方の情報を知らせ、その進路を決定づけさせたことが一豊の土佐一国領主への道を開くことになった。手芸や文筆にもすぐれ、賢夫人として知られている。元和3年(1617)12月4日、京都で没、61歳、法号見性院。この銅像は昭和40年(1965)2月26日に除幕された。
※現地案内板より
三ノ丸石垣
杉の段井戸
詰門
詰門は、本丸と二ノ丸の間の堀切に設けられた櫓門である。廊下橋としての役割も担っており、二階部分は、藩主のもとに向かう家老の待合場所であったことから、詰門の名が付けられたと言われている。一階部分は、籠城に備え、塩を蓄える蔵になっている。入口は、東面と西面で食い違いになっており、攻め寄せた敵が容易に突破できない構造となっている。
※現地看板より
三ノ丸門跡
三ノ丸
二ノ丸
二ノ丸は、藩主が政務を行う場所であると同時に奥御殿が設けられるなど生活の場でもあった。二ノ丸南西部に位置する築山と池は、庭園が無い二ノ丸の中にあって風雅を楽しむ数少ない場所である。明治初年頃の様子を伝える「高知城の図」にも築山が、国主居間の前に描かれており、歴代藩主も居間から築山越しに本丸の建物や高知市南部の峰々を眺めていたものと想像される。
※現地看板より
詰門
詰門入口
本丸
御茶所
書院造
書院造は、寝殿造を母体として発展したもので、室町時代にその形式が生まれ近世に武家の住宅様式として完成させた。それは、大・小両書院を中心に玄関や台所などを配した一連の建物群で、個々の建物(書院)は、畳敷きのいくつかの部屋の集合によって構成される。特徴として、部屋の外回りの建具に舞良戸・明障子が用いられる。柱は角柱で壁は張紙が貼られ障壁画などによって装飾される。また、天井には格天井が用いられる。書院造は主室の床を一段高くして上段高くして上段とすることや座敷飾りの位置、装飾などにより、身分と格式の序列を表現しており、武家の権威を象徴する建築様式である。
※現地看板より
雪隠の間
城内には、多くの便所が設けられていたが、ここ本丸御殿の雪隠は、藩主しか使うことが出来ないものであった。
※現地看板より
帳台構え
書院造の座敷に違い棚や付け書院とともに設けられるもので、畳より一段高いところに框を設け、鴨居を長押の下に低く取り付け、引き分け戸または引き戸の襖を設けたもの。高知城の帳台構えは、上段の間(座敷)に面した側は、襖障子に壺金が打たれ、揚げ巻き結びを組緒にした房が取り付けられるなどの壮麗な装飾が施されている。帳台とは、貴族などの屋敷の寝間や居室のことを指すが、江戸時代の大名屋敷などでは、裏側が納戸となり、藩主護衛の武士が隠れる場所に役割が変化した。こうしたことから、「武者隠し」とも呼ばれる。
※現地看板より
棟札
鎌継ぎ
木材の継手で用いられる手法で、鎌状の突起を持った男木と同じ形の彫形を持った女木で構成される。木材同士を一体化し、力の伝達をはかるもの。鎌形の
首の部分が大きい型式は、鎌継ぎでも古い形態である。
※現地看板より
節穴の修正跡など、ボランティアガイドさんが教えてくれます。
破風の間
破風の内側に部屋を設け、人が入れるようにしたものが初期の形態で実践的なものである。高知城の破風の間は石打ち棚と呼ばれ、物見や鉄砲狭間の役割があり、攻撃の為の小陣地になり東西南面に設けられている。北側の破風内部は、隠し部屋となっている。
※現地看板より
東多聞
家紋
これは「三つ柏」と呼ばれている山内家の家紋で、土佐藩船の船印として使われていた。土佐出身の岩崎弥太郎が三菱を興した時、山内家と岩崎家の家紋を統合させて、会社のロゴを作成した。
※現地説明板より
欄間の展示
黒鉄門
本丸南側を固める門。守りを堅固にするため、扉の外側には、黒漆で塗られた鉄板が打ち付けられている。この様子から、黒鉄門と名付けられたものと考えられている。二階部分は、武者が隠れることが出来る様になっており、門の外側に石落としが設けられるなど防御性の高い門となっている。
※現地看板より
物見窓
矢狭間塀に設けられた横連子の武者窓のことで、本丸東南面の物見(監視)を狙う軍学上重要な窓。矢狭間塀には、監視や鉄砲を打つためにある狭間(ざま)が設けられているが、確認できる範囲が狭いことから監視範囲を大きくとった物見窓が設けられている。
※現地看板より
鉄砲狭間と忍び返し
格子窓の下に開けられた正方形の小穴が鉄砲狭間である。伏せ撃ちが出来るよう窓より下の位置に設けられている。天守の北面には、石垣を登る敵からの防御装置として現存天守で唯一残る「忍び返し」が付けられており、天守北面の守りを固めている。
※現地看板より
水路遺構
長宗我部期石垣跡
追手門
2019/5訪問