城犬のおいど

城巡りと、各地で出会った食事を個人的な感想を添えてお城巡りを紹介しています。

陸奥国 角田城

2024-07-16 05:11:45 | 城館
陸奥国角田城 [カクダジョウ]
別称臥牛城・臥牛舘・角田館・角田要害・金鶏館
城郭構造平山城
築城年永禄年間年
廃城年1874年
指定史跡指定なし
住所角田市角田牛館 [MAP]
スタンプ設置場所
御城印販売場所

概要
角田城は、臥牛舘・金鶏館とも呼ばれ、伊達氏の居城でした。
白石城、亘理城と並んで南からの敵に対する防衛の拠点として、
仙台藩の重要な要害の城でした。
永禄年間には、伊達市の庶流である田手氏が、天正19年(1591)には伊達成実(伊達政宗の父の従兄弟)が居城したと伝わります。
慶長3年(1598)伊達家御一門石川照光が1万石を与えられた志田郡松山より移封、以後明治維新に到るまで約270年間、石川氏の居城となった。

城跡碑
城跡は現在角田高校、角田中学校 になっているため、これより先に進むのは遠慮しました。
城跡碑と、その背後に土塁が見える。

案内看板
この城は、戦国時代の終わり頃に田手氏が、天正19年(1591)に伊達成実(伊達政宗の父の従兄弟)がそれぞれ居城とした。のち、慶長3年(1598)に伊達政宗の叔父である石川昭光が入り、以後明治維新まで約270年間、石川氏代々の居城となってきた。この丘陵の形が、臥せた牛に似ていることから、別名「臥牛城」とも呼ばれる。石川氏は、もとは福島県石川町付近を治める大名であったが、第24代石川晴光に嗣子(跡継ぎ)がいなかったため、永禄6年(1563)に伊達晴宗(伊達政宗の祖父)の四男である昭光を養子に迎え、永禄11年(1568)には昭光が石川氏の家督を継いだ。のち、昭光は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったために秀吉から所領を没収され、甥・伊達政宗を頼った。はじめ、松山城を与えられたが、慶長3年(1598)に角田1万石を与えられ、初代角田城城主となり、角田発展の基礎を築いた。石川氏はその後江戸時代が終わるまでの約270年間にわたって角田を治めるとともに、伊達藩の家臣団の中で最も家格が高い「御一門筆頭」という家柄として藩内でも重要な役割を果たした。なお江戸幕府が「一国一城令」を定めていたことから、角田城は対外的には城ではなく「要害」として扱われていたが、実質的には城としての機能を持っていた。明治時代に入ると新政府から城の破却を命じられたため、現在、城郭が残っていないことが惜しまれる。
※現地看板より

2024/7訪問
2024/7/17 記事修正 別称追加、記事内にリンクを追加


 
 


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