【撮影日:2024/12/27】
国道294号(旧東山道)を走っていると、突然、道沿いに古墳が現れます。
こんもりした丘の上に大きな松が生えているので、人目を惹きます。
「ただ事じゃないな」と思うわけです。
こちらは「下侍塚古墳」(しもさむらいづかこふん)です。
江戸時代、水戸の徳川光圀によって日本初の考古学的調査が行われた古墳として考古学上はとても有名なのだそうです。
地元では「日本一美しい古墳」として売り出しています。
そう言われるのも、納得…。
前方後円墳の「後円」の部分がはっきりわかりますね。しっかり形が保全されています。
多分、草刈りもしているのでしょう。
説明板です。
文字部分を拡大します。
▼大きいですね。栃木県の中では2番目に大きな古墳なのだそうです。
すぐ近くの資料館に足を運んで見ました。
こちらで「日本三古碑」の一つ、「那須国造碑」のレプリカを見ることができます。
原寸大だそうです。
もちろん、拓本や説明板も充実。資料館はいい仕事をしています。(*^▽^*)
ポイントが学べます。
これが、本物から取った拓本です。
▲この碑文はこんなことが書いてあるそうです。う~~ん、漢文。そのまんま。さすが飛鳥時代の遺跡やで…。
まだ「漢字かな交じり文」である通常の日本語ができてない時代ですからね。なにしろ。
いわゆる、「万葉仮名」の要素もありそうです。
▲で、読みくだすとこんな感じだそうです。丁寧でありがたい(・∀・)
先のポイントにあるように、一国の長官であった父親の偉業を示すためにその子が建立した墓誌のようなものですね。
中国の元号が使わていることからも渡来人の作成ではないかと思われるわけです。
ここまで見てくると、実際の石碑を見てみたくなります。
と、いうわけで「笠石神社」に来ました。資料館の近くです。なんなら歩いても来れます。
な、なんと「考古学発祥の地」だそうです。
先ほど下侍塚古墳のところでも述べましたが、この碑の調査を命じたのは「水戸光圀」。いわゆる「黄門様」です。
この石碑の発見をきっかけに、光圀公が先ほどの古墳の調査を命じたそうです。
光圀公は「大日本史」を編纂していましたからそういう歴史の価値を非常に深く理解していたのですね。
そのため、遺跡の保存を厳重に命じたそうです。そのため、ここが「考古学発祥」なのだそうです。
なにせ、光圀公はこの遺跡のために、この地を水戸藩に編入してしまったくらいですからね。
う~~ん、強引。さすが天下の副将軍。
▲まあ、そういったことは先ほどの資料館やこっちの石碑に詳しく書いてあります。
▲さて、この「笠石神社」の説明板なのですが…ちょっと木が邪魔…(*´Д`)
▲読めますか???
この石碑は「笠石」と呼ばれていたそうで、石碑自体がご神体となっています。そのため、覆堂の中にあります。
このさきに「笠石様」が鎮座されているというわけです。当然、厳重に鍵がかかっています。
近づいてもお堂があるだけです。
鍵を開けてもらってご神体(石碑)を見るには隣の社務所で宮司様にお願いするしかありません。
拝観料500円です。そして30分程度の説明がセットです。
……しかし!!!!その説明がプライスレスです。はっきり言って歴史マニアには安すぎる金額と言っていいでしょう。
その説明のほぼ10割が私の知らないことだらけでしたから……!!!!
(ただ単に私が浅学すぎるだけかもしれませんが)……( ;∀;)
詳しくは述べられませんが、歴史マニアの方は一回は聞いた方がいいです。マジで。
で、いよいよご開帳です。
神社自体はとても小規模なものです。
よく見ると、社殿の周りに石垣があり、ちょっとだけ周辺より高くなっています。
わかります??ほんのわずかですが。
実は、これはこの地が古墳だった名残ではないかという説があります。
「笠石」は墓誌ですからこの神社がそのまま「直韋提」(あたいのいで:石碑にある人物)のお墓だったのではないでしょうか。
「古墳にしては盛り土が少なくない??」と思われるかもしれませんが、この当時は「薄葬令」(大規模な古墳造営の禁止令)が出された頃ですから、こんな薄い盛り土程度にしたのかもしれません。
ということは、この下を掘れば多分「直韋提」のお墓が発見できるはずです!!
副葬品やなんかはもちろん、石棺、石室、もちろん人骨も……!!!
考古学上の大発見が見込めるわけです!!!!!!!!( ゚Д゚)
しかし、ここは神社なので発掘とかできないんですね……(*´Д`)
宮司さんに却下されてしまいました…( ;∀;)
▲さて、肝心の社殿ですが、普通のように拝殿と本殿に分かれているものではありません。実に独特です。
覆堂が柵で囲われている感じです。正面には門があり、そこにも鎖と南京錠があって厳重にされています。
そして、その中に覆堂(本殿)があります。
ご神体(笠石=那須国造碑)はもちろん写真NGです。
残念ながら撮れていませんので、このブログに載せることは出来ません。
この本殿の中には薄い几帳があり、照明もあります。
そのため、几帳を掲げながら石碑を間近で見られるのですが……
レプリカと大違いです!!!!( ゚Д゚)
本物は表面がもっと黒くテカテカしています。まるで大理石のようです。
そして、字の彫りが一角一角しっかりしています。すごく鋭角に見えます。
さらに、上品でしっかりした筆遣いです。これは拓本では分かりません。
日本書道史上「日本三古碑」として指定されているのもその字の美しさによるものだというのも納得です。
書いた人はおそらく名のある書家なのかもしれませんが、当然その名も伝わっておりません。
こんな東国の片田舎にこれだけの書家がいたなんて、当時のレベルがすごすぎるのか何なのか私には分かりません。
っていうか、現代の優れた書家の作品もロクに見ているわけじゃありません。
そうです。私は書家ではないのです。だから、詳しくはその価値が分からないのです。
情けない……( ;∀;)
小さいときに数年間書道を習ったというだけなので。
う~~ん、私が書道をもっと深く学んで篆刻とか石文とかやっていたら、この石碑の価値ももっと分かるのになあ…。
人生とは遼遠なるものです。
先ほどの宮司さんとの話でも自分の浅学さを思い知らされました。
学ばなくては分からない価値があります。
それが人生の醍醐味というやつなのでしょう。
1300年前の石碑は私にそんな当たり前のことを教えてくれたような気がします。
一生、見ていたいくらい美しい石碑でしたが、もうお別れです…。
時の深淵を覗いた気がします。
たまたま立ち寄っただけのこの地で。
この日は、この石碑を見ようと決めていたわけでもないのに…。
(おわります)
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