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生活に活力と希望を・・・。

華麗なるギャッビー (バズ・ラーマン監督2013年作品)

2020-10-30 16:59:05 | 映画
                  {彼は途方もなく希望を抱いた男で、他には知らない」
               (「華麗なるギャッビー」からニック・キャラウェイの言葉)  
        
                           
あらすじ
ニック・キャラウェイ(トピー・マグワイアー)は、アル中と不眠、不安症で「パーキンス療養所」で治療していた。主治医から「思い出でも何でも文章に書くと癒される」と助言され、過去を回想して書き出した。

1922年の夏。当時のNYは空前の好景気で、株は高騰し、モラルは低下して狂乱の時代だった。大学では作家志望だったが、ウォール街の証券会社に入った。そして郊外のウエストエッグにコテージ風の家を証券の勉強する予定で借りた。対岸には従妹のデイジー・ブキャナン(キャリー・マリガン)が邸宅に住んでいた。夫はトム・ブキャナン(ジョエル・エドガートン)といい鉄道王の跡取りで、大学の学友だった。

引っ越し後ニックは、ブキャナン邸を訪ねた。デイジーから親友のプロゴルファーのジョーダン・ベイカー(エリザベス・デビッキ)を紹介された。デイジーとジョーダンは、トムに愛人がいることを薄々知っている様子だった。そんな中、トムはNYに用事があるとニックを誘い出かける。ところが途中の石炭捨て場の中の自動車修理工場に寄った。そこのジョージ・ウイルソン(ジェイソン・クラーク)の妻マートル(アイラ・フィッシャー)を連れ、夫人のアパートに行き、マートルの妹を含め、6人で飲めや歌えのどんちゃん騒ぎで酔いつぶれてしまった。

翌日、目覚めると自宅にいた。自宅の隣にはジェイ・ギャッビー(レオナルド・デカプリオ)の邸宅がある。ギャッビー邸では週末ごとにパーティが開かれていた。そこからニックに招待状が届けられた。ニックがパーティに行くと会場はカーニバルさながら来客は、億万長者・知事・遊び人・映画スターなどが乱痴気騒ぎしている。そのうちにニックはベイカーと会う。そしてギャッビーが親しみをみせて話しかけてきた。

翌日、ギャッビーはニックをランチに誘った。自分は膨大な遺産を引き継ぎ、オックスフォードダ大学を出て軍隊では勲章を貰ったと話す。そして賭博師の友人が経営する地下酒場へ案内した。そこで偶然トムに会う。そのあとベイカーに会い、ニックの家でお茶会をやりギャッビーとデイジーを再会させてほしいと頼まれる。デイジーとギャッビーは結婚前に好い仲だったが、ギャッビーが従軍したあと鉄道王トムと結婚してしまったのだという。

ニックはそんな仲介を好意で引き受けた。何も知らないデイジーはお茶会に来て、そこでギャッビーと再会する。お互いに緊張で固まっていたが、そのうち親密さを取り戻し、過去の手紙や写真を懐かしむ。後日、ギャッビーは、デイジー夫妻をパーティに呼んだ。デイジーの夫トムは、ギャッビーの正体を調べるとつぶやく。その後、パーティはなくなり、デイジーが内緒でギャッビー宅を訪ねる。デイジーは家に帰りたくないとまでいう。

ギャッビーはニックに今後のことを話した。駆け落ちではなく5年前にもどしてデイジーとこの家で暮らしたいというのだ。そしてデイジーに「トムを愛していない」と言わせるのでベイカーとニックに立ち会ってくれという。そして当日、ベイカーとニックとギヤッピーは、トム家に行きテーブルを囲んだ。トムはデイジーとキャッピーの仕草から異変をキャッチしてここでなくホテルで楽しく話そうと外へ出る。

みんなはNYのホテルへ行く。ギャッビーはデイジーに「トムを愛していないと言ってくれ」と促す。トムはギャッビーに「お前は証券の操作師で密造酒を売るペテン師だ」更に「お前とは生まれが違う」と侮蔑する。それに対しギャッビーは「黙れ!」と凄い形相で掴みかかったが思い直した。居た堪れなくなったデイジーは帰ると言い出したのでギャッビーは車に乗せてNYを出た。途中の石炭捨て場の自動車修理工場前に来た時、トムの愛人のマートル夫人が飛び出してきたためギャッビーの車は夫人を跳ね飛ばし、そのまま走り続けてしまった。

後からトム達の車が来て事故を知った。夫人の旦那ウイルソンはギャッビーが間男だったと誤解したためトムは「そうだ」と嘘を付いた。デイジーは、自宅に戻ったためギャッビーは外で待ったが来ないので自分の家に帰る。翌日、プールで泳いでいるギャッビーをウイルソンが銃で撃ち殺し、自分も自殺した。警察はトムの供述どおり、ギャッビーの不倫とひき逃げと判断した。ギャッビーの葬儀にはニック以外誰も来なかった。それらすべてを書き上げてニックは「ギャッビー」とタイトルを付けた。

感想など
愛してやまない女性は従軍中に裕福な男性と結婚してしまった。ギャッビーは帰還してから闇雲に働き5年後、財を得て女性の住む対岸に御殿を構え週末パーティを開き女性が訪ねてくれるのを待つ。そして隣人を介して女性と再会する。二人は愛を確認し合うが夫はそれを察する。女性が夫を愛していないと告白することを躊躇している内に夫の謀略でギャッビーは殺される。ギャッビーは息途絶えるまで女性が駆けつけてくれるのを信じて待つというもの。

以前記事にした映画「ベストセラー」に登場したF・スコット・フィッツジェラルドの傑作「グレート・キャッピー」を映画化したもの。1920年代の大恐慌直前の狂乱の好景気を背景にロングアイランドの豪華な保養地と隣接する石炭捨て場の貧困地区を舞台に展開。主人公は極貧階層出身で、密造酒製造で富を築いたが自分は上流階層出だと偽り、女性に対して見栄を張るのだが、女性の夫は調べて主人公が下層階級の出身だと暴露する。

愛された女性とその夫はまさしく上流階級の人間だ。だが、夫は不倫をし、乱痴気パーティを好み、平気で嘘をつき、罪を他人になすり付ける最低の人間だ。愛された女性も夫に愛想尽かししたいのにできない優柔不断さとその場から逃避しようとする軽薄さ、夫の自動車事故からの責任逃れするなど俗人である。彼等の裏表の全部を知っている友人は、洗いざらいすべてを語ることもできないのが実情だ。彼の眼には、「彼は途方もなく希望を抱いた男で、他には知らない」とむしろ追っかけ男の気品と純粋性を称賛する。

女性に来てもらいためのパーティは空振りだったが、隣人を介してギャッビーは女性と再会を果たす。再会の場面が面白い。人は真剣になればなるほど滑稽に見える。また、女性が夫に「愛していない」と決意を告げる場面の混乱状態がまた面白い。結局、女性は言い出しきれずに場所を変えようとまで言い出す。そんな板挟みの状況がきわどく描かれている。

ただの不倫でなく、また駆け落ちで逃避するのではなく、正々堂々と完全に女性を取り戻したい。5年間の過去をなかったものにしたい。ギャッビーの愛は完全無欠な夢を希求したもので、妥協は一切なく、女性の心情も全然疑わす、信頼しきっていて、迷いは一切ない。ただ、妻が夫に「愛していない」を直接言わせようとすることは非常に残酷なことである。現代なら弁護士同士の交渉話になることである。

映画は、愛する追っかけ男を「最後まであきらめないアメリカンドリーム」に重ね合わせているのかもしれない。また貧困地区には、眼科医エックルバーク博士の廃墟の看板が登場する。女性の夫が愛人をひき殺した様子をすべて見ていたわけだ。犯罪は隠蔽され、冤罪のまま追っかけ男は、参列者が誰もいない葬儀を行った。パーティに群がった追っかけ男の邸宅は静寂そのものだった。

映画は豪華で展開もよく出来ていて面白かった。ニックもデイジーもギャッビーも適役と思えたし、熱演していたと思う。しかし、ニックの彼は途方もなく希望を抱いた男で、他に知らない」の主張には同感できなかった。キャッピーは独善的だし、完璧を求めすぎた。ニックが称賛したアメリカンドリームとは、先住民族を何百万人も虐殺し、黒人奴隷によって繁栄し、ベトナム戦争を正義だと介入し、現在はアメリカ第一主義を唱えている独りよがりの夢想主義なのかもしれない。

       


2020-04-08 10:58:24 | 散策
近辺に咲き乱れていた桜も少し散りかけてきました。
新型コロナの緊急事態宣言も4月8日に出され、外出は自粛するように要請と指示が出ています。自宅の庭と自宅前の水路にでていくらか気分転換をしています。

  

  

  

狭い庭にも春が来て花たちが咲き始めています。
水路には、昨年の暮れに飛来したカモたちが、まだ陽だまりの水辺で水草を漁っています。4月を過ぎるとカモたちは、多分どこかに飛び去ってゆきます。ときたま夏場も残留するカモもいますが、ごくわずかです。
水路にはたくさんのカメが住み着いています。ミドリガメが大きくなったもののようです。誰かが捨てたのでしょう。


映画(邦画) この世界の片隅に 片渕須直監督2016年作品

2020-04-02 09:06:59 | 映画

        
     「周作さん、ありがとう。この世界の片隅に、うちを
      つけてくれて。」
       (「この世界の片隅に」から北條すずの言葉 )

あらすじ
浦野すずは、広島県江波で生まれ育った。両親は海苔の加工業で兄と妹がいる。学校では図画が得意で、家でも漫画風の絵をいつも描いていた。出来上がった海苔を届けに行く途中、籠を背負ったオジサンを人さらいと勘違いしたり、伯父さんの家で座敷童を空想したり、周囲からは、空想好きでボーっとしていると噂されていた。

昭和15年3月学校を卒業した。しばらく家で手伝いをしていたが18歳の時、お嫁に欲しいという話があり、嫌も応もなく承知してしまう。相手は呉の海軍関係の仕事をしている北條周作という人。義母はサン、義父は円太郎と言い、周作と円太郎は朝早く仕事に出かける。慣れない家事に勤しむすずだが、持ち前の呑気さで快活にやった。

周作には径子という姉がいて、黒村家に嫁いでいた。径子が娘の晴美を連れて里帰りに来た。径子ははっきりモノを言う性格でテキパキと家事をこなしす。自分の居る間、すずにも里帰りしたらと言うので、すずも江波に里帰りした。妹は挺身隊で働いていた。兵隊に行った兄の要一からの便りはないのが気がかりである。すずは、広島の町をスケッチして歩いた。

2-3日江波にいて、呉に戻ると義姉も嫁ぎ先へ帰っていた。浮かない気持ちのすずは、丘で一人軍港を眺めていると周作が来た。周作は軍港を見渡して、航空母艦や戦艦大和などを指差して教えた。米や調味料の配給は半分になる。すずは野草、芋、卯の花、イワシの干物など工夫して食事や弁当を作った。昭和19年6月になると町には警戒警報が流れ、商店などは建物疎開した。義姉の実家は下関に疎開したため、夫の居ない義姉は離縁してもらいすずの家に同居した。庭に防空壕を作った。

そんなすずが闇市場へ買いに街に出た際、遊郭の中に迷い込む。遊郭の女の人のお蔭で家に戻れた。そんな様子を知った周作は町を案内しようとすずを呼び出した。すずは昔の同級生と会わないか心配する。すずは「今は周作さんに親切にされているし、お友達も出来ているので、現実の夢からは覚めたくない」と言う。周作は「あんたを選んだのは最良の選択だ」と述べる。そんなすずは妊娠に気づく。

すずの家に水兵になった同級生の水原が一泊させてくれと訪ねて来た。周作は納屋の二階に泊まれてと指示し、すずにアンカを持たせた。すずと水原はその夜思い出話に終始した。昭和20年2月、すずの兄要一は遺骨で帰宅した。遺骨と言っても石コロだった。3月19日、呉の上空に軍用機が飛来した。そして空襲が始まる。近所の17歳の少年も徴兵された。そして遂に周作も法務一等兵曹として海兵団で訓練を受けることになった。

呉は空襲が激しくなった。そこで径子は晴美を連れて下関に避難することに決めた。見送りにすずは行った。その際、切符を買っている時間にすずは晴美を連れて義父の居る病院に行った、その帰り道、空襲が襲う。なんとか助かったが、道路の不発弾にが爆殺して、晴美は死ぬ。すずも右手首を失い、全身やけどを負った。

すずは消防団に助けられ家に送ってもらい布団の中で意識を回復した。家では径子が嘆き悲しみ「あなたが付いていたのに・・人殺し」と混乱したので義母はなだめる。すずの家にも焼夷弾が落ちた。すずは必死で消火する。7月に入り空襲は更にひどくなった。妹が見舞いに来た。「広島に帰ったら」と言う。そんな中、訓練が中止になったと周作が帰って来た。ほっとしたすずだが、「広島に帰る」と告げると周作は「1年半、わしは楽しかったよ」と引き留めるがすずの意志は固い。

義母も淋しがる。義姉は「晴美の死をあんたのせいにして済まなかった」と謝る。「そして気兼ねせんでいてもええで」と好意を示した。そんな話の最中に外では大きな稲光がしてキノコ雲が立ち上った。その夜、周作は「広島では新爆弾が投下された」と話す。8月15日には、玉音放送が流れた。「最後の一人まで戦うのではなかったのか!」とすずは憤慨する。

11月、街には進駐軍が入って、すべて様子が変わった。すずは広島を訪ねたが、両親は亡くなっていて、妹だけがいた。海軍を解体するのが周作の役目で周作も広島に来ていた。「11月でお役御免だ」と言う。そして焼野原の町を二人は歩いた。「初めてあんたと出会ったのはこの橋の上じゃ」と立ち止まった。すずは「周作さん、ありがとう。この世界の片隅で、うちを見つけてくれて」と周作の優しさに感謝した。「広島で世帯を持ってもいい」と周作。
すずは「呉はうちが選んだ場所ですけえ」と二人は、近寄って来た孤児を連れて呉に戻った。

            
感想など
映画の時代は昭和初期で、太平洋戦争に突入した戦時中の話だ。まだ、男女平等や女性の自立は難しく男は仕事、女は家事育児をするのが一般的だった頃の話である。優しい両親に育てられ、慎ましく呑気でボーっとしていると周囲から思われていた女性が、人に勧められるまま結婚し、嫁ぎ先の与えられた環境の中で健気に一生懸命生き抜くと言うものである。作者の意図は、戦時中を描くと言うより、一家族の日常の中に戦争が災いした状況を描いた作品だという。

時代が戦時中は、特異な環境であることは確かである。誰でもが生命の危険にさらされ、戦争と言う過酷な状況を背負わされ、節約を強いられ、自由もなく乏しい物資をやりくりして最低限の生活をせざるを得なかった。主人公は、恋愛の経験はなくただ、お嫁に欲しいと望まれて、嫁いでゆく。相手の顔さえよく分からず、嫁ぎ先の住所も細かく知らず相手方の自宅で婚礼の式を上げる。

お相手は呉港の海軍の法務事務官である。なかなか思いやりがあり、優しい人物だ。お姑さんも優しい。ただ、出戻りとも言える義姉が、対照的な存在として出てくる。義姉は不幸だ。眼鏡屋の若旦那と恋愛・結婚して、店を経営していた。旦那は出征して死ぬ。長男と長女がいて、お姑が店をやっていたが、建物疎開で長男を連れ下関に移る。折り合いの悪い義姉は、長女を連れ離婚して実家に戻ったのだ。その長女をすずが町で不発弾に触れ死なせる。すず自身も右手首を失い重傷を負う。

義姉の長女を死なせた負い目。右手首を失った不自由さ、洗濯も食事作りも一人前に出来ない辛さ、義姉は言う「周りに言われ、知らん家に嫁に来て、言われるように働かされ、あんたも詰らん人生やとも思う」と言いつつ、テキパキとすずを手伝ってくれる。ただ、すず自身は残酷そのものと言ってもいい中で、淡々とむしろ平然と厳しさをものともせずに工夫や環境に合わせてポジティブに生きた姿は、現代の平和ボケした時代に平凡であることがいかに幸せであるかを語りかける。

すずが広島の実家に帰る決心を告げた時、夫の周作は「わしは楽しかったよ。この一年半」と引き留める。以前も「すずさん、あんたを選んだのは、最良の選択だった」と本心を述べている。そんな周作の愛情に満ちた態度や言葉は、自分自身が選んだ道ではなかったすずだが、そこに与えられた環境は申し分のないものだったのだろう。

戦時中のため物資の配給制、やみ市場での物資の高騰、憲兵によるスパイ活動の監視、警戒警報や爆撃機による空襲などの緊張感、防空壕への避難、兄の戦死、次々に出征する若者たち。そしてついには夫周作への召集命令などつぎつぎと戦争の重圧は圧し掛かってくるのだが、不味い食事、ちょっとしたことでの諍い、夫婦の言い争い、間抜けな事での笑い合い、人間らしい生活の営みがほのぼのと伝わってくる。

本作はアニメーションで、戦争の悲惨さを伝えているが、アニメ特有のファンタジックで空想的な一面もあり、現実からワンクッション隔てた雰囲気を醸し出している。北條すず夫婦のラブシーンや愛情表現もどこかナイーブで、ぎこちなく可愛らしいものになっている。そこに純朴さやあどけなさがひしと伝わってくる。戦時中の日常生活も、様変わりした現代とは程遠い世界である。なにか別世界の暮らしをみるようだが、そこには不思議と懐かしさを感じてしまう。それは派手さや奇をてらわない丁寧で堅実な画面構成のせいであろう。傑作とは言い難いが、心に沁み込んでくる優れた作品であった。

映画(邦画) 煙突の見える場所 五所平之助監督1953年作品

2020-03-30 14:19:07 | 映画
          
     「家では三本に見える煙突が、川向うでは二本に見えるよ」
          (「煙突の見える場所」から久保健三の言葉)

あらすじ
昭和30年前後の東京下町。北千住のお化け煙突(四本の煙突が見る角度で1-2-3-4本に見える)が、3本に見える場所に緒方陸吉(上原謙)は住んでいる。家は借家で向かい側の法華宗の祈祷所を営む大家から月3千円で借りている。仕事は日本橋の「奴足袋本舗」に勤め、妻弘子(田中絹代)と二人暮らし。家が二階建てなので、二階の二間を独身の久保健三(芥川比呂志)と東仙子(高峰秀子)に朝飯付月2千円と月1千7百円で又貸ししている。二階の久保は税務署の督促係勤務で区内を督促して回っている。また、仙子は上野の商店街のアナウンス係をしている。

緒方陸吉は2年前に初婚で弘子と結婚した。弘子は再婚で、前夫は戦死したという。お互いに愛し合っていた。ある日、弘子が帰宅して緒方の部屋を覗くと陸吉と弘子が抱き合っていた。陸吉と弘子は驚いて、その場を取り繕ったが仙子はしばらく見詰めてしまった。すぐ仙子は二階に上がり、帰っていた久保に「じゃれてるのは見る方もいやなもの。でも、見てやった。愛情なんて情けないものね。私は見られても平気よ」と言う。久保は「残酷だな。下の夫婦に悪いよ」と答える。

陸吉と弘子は仲がいいが、時たま隙間風も入る。弘子は陸吉に内緒で競輪場の両替のバイトをしていた。通帳に積んだ金額を見て「相談もせず」と陸吉は不機嫌になる。弘子の前夫は空襲で死んだと言われていたが「殺したのか」とか嫌味も言う。また職場で「女房が他人の気がする」などと漏らしたりした。ある日、弘子は肉の安売り目当てで、遠回りして帰宅するとき偶然、久保に出会った。そのとき久保は「煙突が2本に見える」と弘子に教えた。自宅近くからはいつも3本に見えていたのだ。そのときお化け煙突は見た場所で本数が違うのだと弘子は気づいた。

その日弘子が玄関に入ると赤ん坊が泣いていたので驚く。夫の陸吉が「どうしたの」と聞いたが「知らない」と答えた。咄嗟に「捨て子よ」と言い放ったが赤ん坊の下に弘子宛ての手紙があった。差出は塚原とあり、前夫だった。「重子はあなたの子です。育ててやってください」とある。そして戸籍謄本が添えてあった。弘子は「警察で相談します」と陸吉へ言ったが、陸吉は自分の持ってる戸籍を見て「二重婚になってる。僕も罰せられる」と警察へ行くことを止めさせる。二階の久保も仙子も赤ん坊の泣き声に閉口している。久保は「緒方さんにも分からないらしい。煙突みたいだ、川向うでは2本に見えたよ」と耳を塞いだ。

赤ん坊は泣きやまない。弘子は寝ないであやしてる。見兼ねた陸吉は自分も抱っこしてあやす。陸吉は「なぜ他人の子の面倒をみなけれならないのか」と文句を言う。弘子と陸吉は口喧嘩になる。喧嘩は二階に筒抜けだ。久保も仙子も寝られない。久保は仙子に「君は僕が好きなのか」と聞く。仙子は「好きな気もするし、嫌いな気もする」という。「じゃんけんで決める」と言い出し、勝負はつかない。そんな騒ぎは緒方たちにも聞こえた。緒方夫婦の喧嘩は極限に達して、弘子は「お世話になりました」と外へ出て行く。それを追う陸吉。その後を久保と仙子も追って行く。川まで来ると弘子は入水し始めた。それを見た久保は慌てて岸辺に連れてきて介抱する。弘子は意識を取り戻し家に帰る。

一段落した久保は仙子に「これは個人の問題ではない。正義の問題だ」と前夫塚原を探すこととした。そんな久保に仙子は「愛している」と言ったので久保は更にやる気を出す。苦労の末塚原(田中春男)を見付けたが、妻の勝子(花井蘭子)に話してくれと責任逃れを言い出す。赤ん坊は勝子が生んだ子だった。勝子が子どもを塚原に押し付けたもので、塚原は親戚に預けたと勝子に嘘をついていたようだ。

一方、緒方家の赤ん坊は高熱を出して危篤状態になる。医者もどうなるか分からないと診断した。そこへ久保が帰ってきて塚原とその妻のだらしなさを嘆く。それを怒る仙子。しかし、赤ん坊は突然、意識を取り戻し元気になった。そんな中、勝子が赤ん坊を返せと緒方を訪ねてきた。緒方夫婦はそんな身勝手な勝子に「返したくない」と追い返す。すごすご帰る勝子。それを見た弘子は気が変わり「可愛いが返してやりたい」と言う。それを聞いた仙子は勝子を追いかけ、赤ん坊は勝子に返した。

そんな事件が一段落して、緒方夫婦の結びつきは一段と固いものとなった。そして久保と仙子の一緒になる約束をしたのだった。

           
感想など
・  この映画は、「煙突の見える場所」に住む一組の夫婦が、ひとつの災難を契機に愛情を確認しあい、それに関わった二階に下宿する二人の独身男女が前向きに結ばれるという話です。そこには4本の煙突が見る場所によって違う本数に見える現象を人間の心の距離感に譬えているようです。

・  人間の疑心暗鬼とか、心の曖昧さ、狡さや身勝手さが描かれ、深刻なテーマですが、どこか風刺的ユーモアに満ちています。周辺には愉快な人達が登場し、旦那は刑法184条を持ち出したり、パチンコの景品を持て余したり、独身男女の決め事はジャンケンで決めたりして笑わせます。

・  東京大空襲で役所の戸籍簿が焼失したところもあるので、戸籍の二重登録もあったのかもしれませんが、緒方陸吉の刑法184条で罰せられるから警察に届けられないというあたりは、あまりにも戦後民主主義に慣れていない庶民の端的な心情かもしれません。

・  芥川龍之介の長男芥川比呂志が出演し、音楽を次男の也寸志が担当しています。映画の内容以上の迫力を感じる音楽でした。芥川比呂志さんは朴訥でよかったし、高峰さんはだぶだぶのズボンをはいて粗末な格好もしましたがやはりお顔は美しいです。上原謙と田中絹代は下町ではちょっと上品すぎる感じもしました。

・  中学生の頃、この映画のポスターを横目に通学したことを覚えています。自宅から直接「お化け煙突」は見えなかったが、歩いて15分もすれば見えたし、北千住の名物だとは知れ渡っていた。ただ、当時はこの映画には関心なく時代劇や活劇を面白がっていたのでとうとう見過ごしてしまった。大人になり煙突も撤去されてみるとやはり懐かしいものです。いつか見たいと思いつつ機会を逃していました。東京下町ものの映画にはいつもシンボルのように出ます。最近、やっと見られました。

 北千住の火力発電所の4本の煙突は、見る角度や場所によって、1本から2本、3本、4本と見えました。そこで周辺の人達は「お化け煙突」呼んで、ひとつの名物のようになっていたのです。大正15年に出来て昭和38年に老朽化して取り壊されました。当時、下町を描いた映画には下町のシンボルのように出ています。「東京物語」「見上げてごらん夜の星を」「いつでも夢を」「女が階段を上るとき」などがあります。

読書(小説) 「キネマの神様」 2008年 原田マハ著

2020-03-22 18:37:07 | 読書
            

                   「ああ、俺は本当に映画が好きだ。
               映画を見続ける人生でよかった。」
         (小説「キネマの神様」からゴウの言葉)

あらすじ
ギャンブルと映画マニアの79歳の丸山郷直(通称ゴウ)は、映画雑誌「映友」が主宰するブログに映画評論を投稿していた。そのおかげで、失業中の娘歩(あゆみ)は「映友」の専属ライターとして採用される。「映友」の経営状態は芳しくなかった。そのためブログに力を入れ、リニューアルを考えていた時、ゴウの映画評論に出ていた「シネマの神様」というタイトルでブログの拡張を図ったところ、それが功を奏し、ブログへのアプローチは延びて、雑誌にも影響し始める。

そんな中で、歩は以前いた会社の後輩清音が、アメリカに住んでいたので、アメリカ版の「シネマの神様」を開設したところアプローチは10倍に膨らむほど盛況になる。
ある日、ゴウが投稿した「フィールド・オブ・ドリームス」の記事に対して、アメリカのローズ・パットというハンドルネームの反論記事が載り、バトルが繰り広げられた。それがますます「シネマの神様」のブログを煽った。

ゴウが足繁く通う、市ヶ谷の名画座「テアトル銀幕」の経営者寺林新太郎(テラシン)は、経営危機から名画座の閉鎖を宣言した。ゴウや歩は、やむなくローズ・パットに対し、相談するブログを掲載し、回答を待つことにした。待つ内にローズ・パットとは、アメリカで著名な映画評論家リチャード・キャパネルであることが判明する。時間を置いて存続を願うという回答と共にトム・ハンクスや著名人から署名入りで存続を願う手紙が殺到する。それによって「テアトル銀幕」の入場者は増えて、存続することができた。

ゴウとキャパネルは、お互いに会うことを約束するのだが、キャパネルは癌で急逝する。
そして、「テアトル銀幕」のキネマの神様感謝祭では、「映友」関係者、ゴウ、歩などが、亡きキャパネルの席も確保して、みんなが一番好きな映画をみんなが一番好きな場所でみんな一緒に見るのだった。その映画とは ?

感想など

l       この小説は出来栄えとは関係ありません。とにかく映画好きな連中が、ブログを介して映画議論のバトルを繰り返し、一喜一憂するということで、ごく身近な話でした。😊 

l       また、名画座の存続やシネコンの話題が絡み、有名作品が実名で書かれ、作者の思い入れの感想が詳しく書かれていて、大いに共感できたのも面白かったのです。

l       映画の神様というのは、ゴウという79歳の映画マニアが、発想したもので「映画館には神がいて、映画という奉納物を見て喜ぶ観客を楽しんでいる」というものです。

l       映画「フィールド・オブ・ドリームス」の評価について、ゴウとローズ・パットの受け止め方の違いは、この映画のもつ面白味でもあるわけです。

l       「ニューシネマパラダイス」「硫黄島からの手紙」「ローマの休日」「カサブランカ」「オールアバウトマイマザー」「トークツーハー」などなどの名画の名前がぞろぞろ登場するのも映画好きにはたまりません。 

l       作者は原田マハさん。1962年生まれ、「カフーを待ちわびて」で作家デビュー。この作品は2007-8年に別冊文藝春秋に掲載され2008年刊行されたものです。
   「リーチ先生」で新田次郎文学賞、「美しき愚か者たちのタブロー」など過去3回直木賞の候補に挙がった。

現在、映画化されていて今年中(2020年12月)に公開される予定です。作品は山田洋二監督で、志村けんと菅田将暉,永野芽郁,宮本信子が出演します。

追記; 4月に撮影開始予定でしたが、3月半ばに志村けんさんは、新型コロナウイルスに感染して入院したようです。70歳と高齢なので心配です。(3月26日)

追記; 4月からの撮影は困難として、志村けんは降板したと報道あり😰 。(3月27日)

追記; 3月29日にお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。(3月30日)