環状線の京橋駅で降り、目的地に向かった。
今日は私が初めて担任をした茨田高校4期生の『アラカン同窓会』 会場は京橋の『ガーブドレッシング』というイタリア料理店。写真を撮り忘れた。これはネットから。
2階は貸し切りになっていた。幹事さんとしては100名くらい参加して欲しかったのだが、同窓生35名、元担任5名の参加となった。コロナが終息していない状況での同窓会の開催はご苦労があったと思う。
プロジェクターのビデオを説明している元、柔道部の生徒。彼らとは7歳しか違わない。女性教師だから舐められてはいけないと思い、偉そうにしていたなあ。いつも肩に力が入ってたと思う。
おしゃべりに夢中で、写真を撮ることを忘れていた。写真係の男性がたくさん写真を写していた。しばらくすると4期生のホームページで見れるのだろう。
茨田高校は2年半後に閉校になることが決まった。母校がなくなるとはどんな気持ちだろうか。とりわけ4期生は母校愛が強くて、卒業してもふらりと遊びにくる子が多かった。去年の8月31日のブログに閉校について書いた。毎日誰かが閲覧してくれている。
2021年8月31日のブログ
元担任が一人ずつあいさつをした。私は迷わず『2年11組修学旅行飲酒事件』について話した。修学旅行は東北に行った。4泊5日くらいだったと思う。クラス定員が48人で12クラスあった。500人を超える。それで二つに分かれ逆回りをした。私の後半クラスは帰阪する前日は磐梯山に登る予定だった。ところが雨が降り、代わりに会津若松城を見学した。若者たちはエネルギーを持て余した。お土産屋では、お酒も売っていた。そして、夜も深まってきた頃、見回りに行った学年主任の先生(私の高校の恩師)に、清水先生のクラス、怪しいから見てくるように言われた。渋々男子の部屋に行くと、案の定、こっそり酒盛りをしていた。今思えば、見逃せばよかったと思うが、教師になって2〜3年の新人教師は、そんなことはできなかった。結局、男子のほとんどの部屋で飲酒があったことがわかり、教師の部屋で事情聴取が深夜まで続いた。みんな3日間の停学になった。修学旅行後の教室に、男子生徒はほとんどいなかった。💦 私はやつれた。そんなことやら、文化祭でハングライダーを作ろうとしたりと、元気すぎるクラスだったので、2年11組のことはよく覚えている。
閉会前に起立して校歌を歌った。涙ぐんでいる還暦さんもいた。女性は後ろの方のテーブルに固まって座っていた。
この元生徒が話しに来てくれた。彼は英語が大好きで高2の時、アメリカ領事館まで行って、アメリカの高校に留学できないか尋ねたそうだ。留学は無理だったが、英語、洋楽、アメリカに対する愛は変わらなかった。同志社大学をでて銀行員になったが、それでも毎年、往復の航空券だけ買ってアメリカに行き、レンタカーでアメリカ旅行をしたそうだ。
彼が英語好きになったのは、私の授業によるそうだ。really? 新設高校だったので、英語教育では評価の高い豊中高校のベテラン英語教師が開校時に迎えられた。音声重視と多読はその先生の方針だった。4期生が1年の時に、週に1時間だけ教科書を使わずに英会話のような授業があった。市販の英会話のテキストを使った。授業は私の好きなようにやっていいと言われた。テキストだけでは退屈なので、最初に3分間の英語スピーチを順番で全員にやらせた。最後に英語の歌を聞かせた。3年になると、副読本を使った授業を週に1時間組み込んだ。私たちは“Karen”という教材を選んだ。未熟児で生まれ保育器で育ったカレンが、成長していく様子を英語で読んだ。最後まで読めなかったが、カレンに合う松葉杖で歩けるようになり、”I can walk”という場面は感動的だった。彼に言わせると私が授業中に涙を流したそうだ。私の感動は彼にも伝わったのだろう。
彼は仕事をしながら46歳で英検1級に合格した。私は60歳になって、やっと合格した。
5時過ぎに同窓会はお開きになった。名残惜しいが、京橋駅から自宅に向かった。
喋ってばっかりで、あまり食べていなかったことに気づき、乗り換え駅の近くで軽食をとった。キッシュと栗のパンとコーヒー。
帰宅して、いただいたお土産を開けた。
ある元生徒が創業明治45年の和菓子店を継いでいる。野田にある和菓子店『浪花屋』さん。
茨田高校の校章入りのお菓子『萬牟多(まむた)せんべい』 茨田(まんだ)は日本書紀や古事記に登場する。
先ほど紹介した元男子生徒からメッセージが届いた。「ネットの無い時代に世界への目を開いてくださいました。」という文があった。確かに、あの頃は外国は今より遠くて未知の世界だった。高校に入学した生徒に対する英語教師の役割は大きかったのかもしれない。今は幼稚園や保育園にもネイティブの先生が英語を教えにくる。