精神障害を持って、世界が健常者と分けられてしまった感じを常に持っている。賃金は健常者よりもずっと安いし、友達も病院で知り合った同病の人が増える。親は差別があることを前提に「負けるな」とはげまし、事情を知っている親戚は関わりを避けるか逆に過剰に気遣う。
以前から付き合っていた人の中には精神病になったからと態度を露骨に変える人もいた。これはとても不快。世界は私を精神障害者として扱う。そういう状態が嫌なら、病気であることを明らかにしないで暮らしたほうがいいのか、とも思う。実際同病の多くの人が障害を隠して暮らしてる。
私はツイッターで障害を持っていることをオープンにしている。実生活でも特に隠してはいない。自分から話すことは無いけれど、これは病前から自分のことを話すのが苦手なため。良くも悪くも病気は私の一部になってしまった。その病気とうまく付き合うために隠すという選択はしていない。
精神障害者と健常者の間には見えない高い壁がある。そう思う時、私は私の中の精神障害者である自分に対する偏見と常に向き合わざるをえない。障害を持っている同士で話し合うことはあっても、健常者とはなかなか話し合えない。答えはまだ出ないが、これは安定期にあるから考えられることでもある。
精神障害を持っていても結局は人。精神の病を得ても安定期にあれば、人格がドラスティックに変わりはしないということ、そして社会に混じってあなたの隣にいる精神障害者の多くは、この安定期であり、危険なモンスターでは無いことを多くの人に知ってもらえたらと思う。
以前から付き合っていた人の中には精神病になったからと態度を露骨に変える人もいた。これはとても不快。世界は私を精神障害者として扱う。そういう状態が嫌なら、病気であることを明らかにしないで暮らしたほうがいいのか、とも思う。実際同病の多くの人が障害を隠して暮らしてる。
私はツイッターで障害を持っていることをオープンにしている。実生活でも特に隠してはいない。自分から話すことは無いけれど、これは病前から自分のことを話すのが苦手なため。良くも悪くも病気は私の一部になってしまった。その病気とうまく付き合うために隠すという選択はしていない。
精神障害者と健常者の間には見えない高い壁がある。そう思う時、私は私の中の精神障害者である自分に対する偏見と常に向き合わざるをえない。障害を持っている同士で話し合うことはあっても、健常者とはなかなか話し合えない。答えはまだ出ないが、これは安定期にあるから考えられることでもある。
精神障害を持っていても結局は人。精神の病を得ても安定期にあれば、人格がドラスティックに変わりはしないということ、そして社会に混じってあなたの隣にいる精神障害者の多くは、この安定期であり、危険なモンスターでは無いことを多くの人に知ってもらえたらと思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます