こんにちは。
わたし、ずっと母に恨まれてたんです。
父が末期の頃、父は仕切りにあれこれ食べたがるようになりまして。
父は、大腸癌を患ったので、食べたがっても食べられない方が強く、消化に良いものや塩分を考えて母は料理を作っていた。父が食べたいものを聞いて、確実に消化不良で父は苦しむだろうな、ただでさえ、癌で辛いのにと。
しかし、食べたい父の願いは真摯で、それ故に、妊娠して、実家に帰っていたわたしには、身につまされるものがありました。
それ故に、2人で散歩に行った時に、ちょくちょく、食べるようになったんですよ。
父は、ろくにお金を持ってなかった(小銭)ので、当時稼ぎ倒したわたしが、食べさせてたんですね。
中華、ハムカツ、トンカツ、マクドナルドのチーズバーガー。
母には繋がらない食べ物のラインナップでしたがね。わたしは知ってたんですよ。
これ、本当は、自由が丘のお惣菜センターや、自分の仕事場近辺のコロッケやハムカツ、トンカツであり、中華は、満州で食べたものや麗郷に行きたかったんだろうと。チーズバーガーは、今はイオンとなった目黒のダイエーに長いこと入ってたドムドムバーガーのチーズバーガー。ロゴスキーも買って食べましたね。
全部、父の思い出なんです。父は、そこで子供と分け合って食べたり、自分で食べることができるようになった自由の味なんですね。
あんなに、父の母方の家は大きかったのに、栄養失調で、家族を養う子供が、やっと大きくなって家族と共に食べられた幸せの味だったんだと思うんですよ。
だからって、食べたら苦痛だとは思いますよ。
でも、父は、満州のあった場所にも出かけてきて、自分の生まれ故郷をみて、もう、自己回想録を始めてて、それの仕上げが、食だったんですね。
あの頃を思い出して、桜咲く目黒川や、色々な生活が、父にとって一番大切な時期だったんでしょうね。
なので、食べて頂きました。半泣きで食べてる父を見て、思い出を語りました。
母は、それを聞いて、消化に悪くて、苦しむ父を加速させたと怒ってましたね。勿論ですが、母には、思い出の食べ物が食べたいなんて、分からないのですから、放って起きました。
母が、老衰が激しくなって、虐待で栄養失調からの圧迫骨折になった時は、その前後も含めて、母の思い出を辿っていました。ちょうど、兄の手に持て余した不動産の整地で、兄にはできなくても、わたしには、潤沢なコネがあったのと、仕組みを理解するのは早いので、現地に行く名目で、
母の思い出を辿っていました。行きたかったお寺、昭和20年に行ったきりの思い出を、あれはなんでだったのだろうか、それを紐解きました。あまりに都合よく、都合の良い人と会えて、母の謎は解けて行きました。
その中で、田舎っぽい宿も見つけて、母は、その時ですかね、始めてわたしが父にしたことを許せたようですよ。
わたしは、訪ねたい思い出の場所も行っちゃったし、色々自分でやっちゃったのですが、やりたかったことだけ、残ってます。
食べたいと5年以上も眺めて暮らしたものや、色々なところのあの味。
もう、何一つ東京には残ってない面影。辿りたくても、無い風景。
それがね。人生を振り返るんでしょうね。
父は、苦しんで食べたけれど、1年後、初孫を見て逝きました。泣き続ける初孫を抱いて、深夜眠れない時に、よくその寝顔を見ていたようです。
母は、郷里の食べ物を食べて元気になりましたしね。
心の終活って、大事なんだなと思うことありますよ。
わたしも53になりました。無茶な延命は却って命を削るので、それこそ、医師にやられてることは、ホスピスにいるような生活ですね。
ホスピスでも、仕事のできる環境。ただ、大分仕事が辛くなりました。いつまでブログが続くか分からないですが、確実に、着地点が見えるような。見えないような。
また一年よろしくお願い申し上げます。
朋