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こんにちは。
あんまりいい意味じゃなく私は親族から「成金」って呼ばれています。無論積極的に悪い意味なんですが、その癖、親族は何かあれば聞いてきます。
ただ、兄のように「相続」出来るものを何一つ持たない私と主人は、二人で金を稼いできてここまでやってきました。セレブとやっかまれる事もありますが、本当のセレブを知っているだけに、そんなものではないと自分は断言できます。事実、物は大事にしますし、兄の家より慎ましいお金で我が家はやりくりしています。兄の家より人数が多くてもね。大きく相変わらず、蟻とキリギリスのまんまなんですが。
介護って難しい話でしょう。金があっても、世田谷区なんて毎日のように区役所に人が来て「どうにかしてくれ」と老老介護を訴えます。私も横で聞いていて、こりゃ大変だと思います。皆、世田谷だって多かれ少なかれ、世代は移り変わるわけで、金で解決つく人ばかりじゃありません。入れたくてお金がない人も、お金があっても順番がない人もいるし、大体、人の命は決まっていないので、トータル幾らかかるんだか見当つきません。
ある方のお父さんが介護が必要で、それをしていたその方の奥さんが既に障害者になるほど体を悪くし、そして本人が仕事の合間に一生懸命介護をするけれどどうしようもないと訴えるケースが多いんです。けれど、東京都の場合は非常にシビアです。
私の父はとっくに亡くなりましたが、その介護だって最後は急でしたしね。介護って思うほど以上に負担が大きいんですよ。だって、元は大人なんですから。子供を面倒見るのとは違います。子供は成長し出来る事が増えていく。介護は反対で、出来ない事が増えていく。自分の親がこの状態で、切羽詰った「瞋恚さん」だった私には、その生きる最期の気力ってのが、痛いほど辛かったです。
自分の親が、自分が成長してとっても小さく見えると、更に胸は切なくなります。でも、それが現実で、いつか親は亡くなる。ただ、その亡くなるまでのプロセスを支えきれるほどの集合体ではないんですよ、核家族って。
祖母と祖父が亡くなった家も、自分では思いましたよ。その代わり、葬式には出て来れなかったけれどその時に生まれたひ孫がいて。そうして、家は死でも汚されるというのではなく、死を迎え生を迎える場としていつも、生きているんだなと思いましたから。
金があっていい治療を受けさせてやりたいのは、皆同じで、だから医者にツケ届けの習慣がなくならなくて、ちょっとでもいい医療をと思う。だから、うちの実家に婚家から勝手に相談が行っちゃう事よくありました。でも、その実家の兄もいいコネでその当時のいい医者にやってもらった口なんですが、その妹である私は、全くNOコネクションで挑んでいます。
そうです。アカデミックにこれだけコネがあっても、何でも今のところコネ使った事はないんですよ。私、確かに手練はある程度の医者の方がいいとは思うんですが、自分が年取って一緒に年取っていく医者でないと困るんですよ。先死なれても困るんで。というのは、ワンタイムのお世話じゃないから。自分で医者を探してその医者がどこまで医学を理解し何処まで真摯に尽くすか、それで自分の医療の医者の価値は決まると思うんですよ。だから、比較的若い医者を好んで行きます。
今の循環器担当医師が最先端最高質だとは思いませんよ。でも、彼には誠意がある。それでいいのかって言えば、私は医学の中のインシデントもアクシデントもこよなく経験した為に結果的に障害者までなっていますが、それでもいいんだと思うんです。一生懸命考えてくれる。で、自分も考える。で、だめなら、今の医学で出来ないって事なんですよ。まぁ、私の場合、どうしたら絶対に治るって事がまずないんでね。根治不可が大前提なんで、既にその路線で考えているんです。大体、私は自分で痛みを徹底して分析し終わって必要な薬を貰いに行くんでね。
それが頼れる医者がないと叔母は嘆きますが、それは医者の傲慢ってもんですよ。医学は本人程以上に解決はつかないもんです。幾ら抗がん剤いれようったって、体が受け付けなきゃ、たったそれだけで、最終的に終わりなんですから。
金があれば、いい医療が受けられる。学生時代は、ずっと思っていました。で、実際に自分はそういう医者を沢山見ている。知っている。で、何故に電話しないかといえば、その医者の0.005%の確率にはまった時、後悔しないかと聞かれれば、後悔するからでしょうね。多分現実を見すぎなんです。知りすぎた事があるんですね。現実はそんなに美しくはないんです。金をかければいいもんじゃない。コネもありゃいいってもんじゃない。あったって、「絶対」100%の保障なんかない。「術と結果」にこだわる人がいて、「心と緩和」にこだわる人がいて、私はその結果より「心」にこだわる人の方がいいだけです。
子供の医療もそうですが、大金をはたいた挙句、たった数時間で亡くなる子もいる。で、そのままにしておいた方が長生きしたんじゃないかって思う部分がある。誰も否定はしない。だけれど、肯定も出来ない。
だから、自分も思いますよ。どんなに最先端の医療を受けても、「今以上はない。今以下なら幾らでもなれる。」と。だから、無闇なものは一切受けないし、AEDを背負う程の状態でも、ペースメーカーはいれない。いれたら、いれた弊害だってあるわけで、そこまで自分が責任持つか?と聞かれたら無理。今は、戻ってこれるから、かなり痛くても我慢はする。それ以上は過剰医療だと思うからです。
周りの思いで生かされる人が、本当に「生かしていただいてありがとうございます」と思っているかどうかなんて分かりませんね。苦しいなぁ、辛いなあ、まだまだかなぁって思っているんだと思いますしね、「長くなって悪いなぁ、周りが気の毒だなぁ、今日も苦しいなぁ。いつまで続くんだろうなぁ」とも思っていると思いますから。まんま、自分がそう思うんでね。
でも、周りはそれでも生きていて欲しい。それは本当に良く痛いほど分かるんですよ。で、私の顔色ひとつで、勝手に今年の海外旅行予定がなくなっちゃったんですけれど、本当に息子に悪いなと思うんです。だからって自分が早く亡くなるのと、それでも生きていて欲しいと思うのは、言わずもがなの選択肢で、私はだからこそ、こんなに苦労してまで生き残っているんですが。それを大きく、根治ではなくても寛解に持ち込もうとする野望がこんなにきついんですよ。
家族の気持ちが痛いほど分かっていて、それも知っていて、それでも自分は生きなきゃいけないんだと、いうのは前向きに考えても辛い事実です。
こんなだから、介護する方だって、身が持たないと思うんですよね。だから、結局ここで言えるのは、病気や老化を目の前の現実として生きていくのが、介護をする人、される人両方の立場から、「ストレスを発散して欲しい」んです。それは、障害児に接している人も、障害を持つ人、それを支える人にも欲しいんです。適度な息抜きしなくちゃ、この現実は何一つ変わらない、明日が見えない、シビアな現実ですから。
でも、よく全ての人に言うんですが、
「存在に、何かの意味を求めてはいけない」
と申しております。障害児さんの親御さんも、障害を持つ人も、支える人も、自分の存在に何か意味がなくちゃ、そのものの存在に何か意味を持たなくちゃ、自分が前に進めないのは良く分かるんです。で、「神は自分が出来るから与えた困難だ」ってのは、本当に後付の理屈で、自分は結局目の前の現実が重すぎて、あまりに重過ぎて、何かの意味を求めたい、何かの意義を求めたいんです。宗教ってものはそうして出来上がるんです。
でも、私は相変わらず自分の存在に何も意義はないと思うし、こうなった経緯を自分で思うんですが、もはやここまで来たら、「完走あるのみ」で、経緯に意義なんかいらないです。自分の存在に意味なんかありません。
今の私には揺るぎない事実があって、それを愚痴なく受け入れられる「自分にゆとりある許容量」を持てるかどうかが問題であって、それだけが自分の中を「快適にする」か「しないか」を決めると思います。
金があったら、って思えばきりがないし、その弱みに付け込むビジネスも存在します。人はお金の少なさでも狂い、多ければ狂う性質を持っています。心にゆとりを失うんです。それ程魔力があるのかと申せばそうです。
ただ、うちに凄い裕福な親族がいましてね。で、インシデントかアクシデントか(秘密)で簡単に亡くなりました。コネも使ったんですけれどね。金があっても無理なものはあるんですよ。ただ、魔の匂う場所に、ビジネスが存在し、うわべだけの奇麗事では済まなくさせる事があるのも事実。
で、私が何故、ここまでドツボにはまっているか、考えて欲しいんですよ。「金じゃ満足できる医療が買えない」って言ってるんですよ。医学は万能じゃないんです。100%が存在しないんですよ。でも、それを責めたら、次の患者が助からないじゃないですか。自分がアンラッキーでも、ラッキーな人はいるんです。だから、医者を責めるだけじゃ意味がない。
まぁ、苦痛にまつわる人の弱みに付け込むビジネスは、何も霊感商法だけの専売特許じゃない。けれど、いつしかそのビジネスが、集金装置と化していくのは誰にも止められないし、いつでも次の獲物を待っている状態なんです。霊感商法よりあくどいのは、命の本当の危険性を盾に脅し強請るところですか。だけれど、現実は厳しい。どんな手段でもいいから救いたいと思う。救われたいと願う。
そして今日も日が暮れる。
朋
インシデントレポート:医療上、やむを得ず起きてしまった案件
アクシデントレポート:医療上、避けようとすれば避けられた案件
あんまりいい意味じゃなく私は親族から「成金」って呼ばれています。無論積極的に悪い意味なんですが、その癖、親族は何かあれば聞いてきます。
ただ、兄のように「相続」出来るものを何一つ持たない私と主人は、二人で金を稼いできてここまでやってきました。セレブとやっかまれる事もありますが、本当のセレブを知っているだけに、そんなものではないと自分は断言できます。事実、物は大事にしますし、兄の家より慎ましいお金で我が家はやりくりしています。兄の家より人数が多くてもね。大きく相変わらず、蟻とキリギリスのまんまなんですが。
介護って難しい話でしょう。金があっても、世田谷区なんて毎日のように区役所に人が来て「どうにかしてくれ」と老老介護を訴えます。私も横で聞いていて、こりゃ大変だと思います。皆、世田谷だって多かれ少なかれ、世代は移り変わるわけで、金で解決つく人ばかりじゃありません。入れたくてお金がない人も、お金があっても順番がない人もいるし、大体、人の命は決まっていないので、トータル幾らかかるんだか見当つきません。
ある方のお父さんが介護が必要で、それをしていたその方の奥さんが既に障害者になるほど体を悪くし、そして本人が仕事の合間に一生懸命介護をするけれどどうしようもないと訴えるケースが多いんです。けれど、東京都の場合は非常にシビアです。
私の父はとっくに亡くなりましたが、その介護だって最後は急でしたしね。介護って思うほど以上に負担が大きいんですよ。だって、元は大人なんですから。子供を面倒見るのとは違います。子供は成長し出来る事が増えていく。介護は反対で、出来ない事が増えていく。自分の親がこの状態で、切羽詰った「瞋恚さん」だった私には、その生きる最期の気力ってのが、痛いほど辛かったです。
自分の親が、自分が成長してとっても小さく見えると、更に胸は切なくなります。でも、それが現実で、いつか親は亡くなる。ただ、その亡くなるまでのプロセスを支えきれるほどの集合体ではないんですよ、核家族って。
祖母と祖父が亡くなった家も、自分では思いましたよ。その代わり、葬式には出て来れなかったけれどその時に生まれたひ孫がいて。そうして、家は死でも汚されるというのではなく、死を迎え生を迎える場としていつも、生きているんだなと思いましたから。
金があっていい治療を受けさせてやりたいのは、皆同じで、だから医者にツケ届けの習慣がなくならなくて、ちょっとでもいい医療をと思う。だから、うちの実家に婚家から勝手に相談が行っちゃう事よくありました。でも、その実家の兄もいいコネでその当時のいい医者にやってもらった口なんですが、その妹である私は、全くNOコネクションで挑んでいます。
そうです。アカデミックにこれだけコネがあっても、何でも今のところコネ使った事はないんですよ。私、確かに手練はある程度の医者の方がいいとは思うんですが、自分が年取って一緒に年取っていく医者でないと困るんですよ。先死なれても困るんで。というのは、ワンタイムのお世話じゃないから。自分で医者を探してその医者がどこまで医学を理解し何処まで真摯に尽くすか、それで自分の医療の医者の価値は決まると思うんですよ。だから、比較的若い医者を好んで行きます。
今の循環器担当医師が最先端最高質だとは思いませんよ。でも、彼には誠意がある。それでいいのかって言えば、私は医学の中のインシデントもアクシデントもこよなく経験した為に結果的に障害者までなっていますが、それでもいいんだと思うんです。一生懸命考えてくれる。で、自分も考える。で、だめなら、今の医学で出来ないって事なんですよ。まぁ、私の場合、どうしたら絶対に治るって事がまずないんでね。根治不可が大前提なんで、既にその路線で考えているんです。大体、私は自分で痛みを徹底して分析し終わって必要な薬を貰いに行くんでね。
それが頼れる医者がないと叔母は嘆きますが、それは医者の傲慢ってもんですよ。医学は本人程以上に解決はつかないもんです。幾ら抗がん剤いれようったって、体が受け付けなきゃ、たったそれだけで、最終的に終わりなんですから。
金があれば、いい医療が受けられる。学生時代は、ずっと思っていました。で、実際に自分はそういう医者を沢山見ている。知っている。で、何故に電話しないかといえば、その医者の0.005%の確率にはまった時、後悔しないかと聞かれれば、後悔するからでしょうね。多分現実を見すぎなんです。知りすぎた事があるんですね。現実はそんなに美しくはないんです。金をかければいいもんじゃない。コネもありゃいいってもんじゃない。あったって、「絶対」100%の保障なんかない。「術と結果」にこだわる人がいて、「心と緩和」にこだわる人がいて、私はその結果より「心」にこだわる人の方がいいだけです。
子供の医療もそうですが、大金をはたいた挙句、たった数時間で亡くなる子もいる。で、そのままにしておいた方が長生きしたんじゃないかって思う部分がある。誰も否定はしない。だけれど、肯定も出来ない。
だから、自分も思いますよ。どんなに最先端の医療を受けても、「今以上はない。今以下なら幾らでもなれる。」と。だから、無闇なものは一切受けないし、AEDを背負う程の状態でも、ペースメーカーはいれない。いれたら、いれた弊害だってあるわけで、そこまで自分が責任持つか?と聞かれたら無理。今は、戻ってこれるから、かなり痛くても我慢はする。それ以上は過剰医療だと思うからです。
周りの思いで生かされる人が、本当に「生かしていただいてありがとうございます」と思っているかどうかなんて分かりませんね。苦しいなぁ、辛いなあ、まだまだかなぁって思っているんだと思いますしね、「長くなって悪いなぁ、周りが気の毒だなぁ、今日も苦しいなぁ。いつまで続くんだろうなぁ」とも思っていると思いますから。まんま、自分がそう思うんでね。
でも、周りはそれでも生きていて欲しい。それは本当に良く痛いほど分かるんですよ。で、私の顔色ひとつで、勝手に今年の海外旅行予定がなくなっちゃったんですけれど、本当に息子に悪いなと思うんです。だからって自分が早く亡くなるのと、それでも生きていて欲しいと思うのは、言わずもがなの選択肢で、私はだからこそ、こんなに苦労してまで生き残っているんですが。それを大きく、根治ではなくても寛解に持ち込もうとする野望がこんなにきついんですよ。
家族の気持ちが痛いほど分かっていて、それも知っていて、それでも自分は生きなきゃいけないんだと、いうのは前向きに考えても辛い事実です。
こんなだから、介護する方だって、身が持たないと思うんですよね。だから、結局ここで言えるのは、病気や老化を目の前の現実として生きていくのが、介護をする人、される人両方の立場から、「ストレスを発散して欲しい」んです。それは、障害児に接している人も、障害を持つ人、それを支える人にも欲しいんです。適度な息抜きしなくちゃ、この現実は何一つ変わらない、明日が見えない、シビアな現実ですから。
でも、よく全ての人に言うんですが、
「存在に、何かの意味を求めてはいけない」
と申しております。障害児さんの親御さんも、障害を持つ人も、支える人も、自分の存在に何か意味がなくちゃ、そのものの存在に何か意味を持たなくちゃ、自分が前に進めないのは良く分かるんです。で、「神は自分が出来るから与えた困難だ」ってのは、本当に後付の理屈で、自分は結局目の前の現実が重すぎて、あまりに重過ぎて、何かの意味を求めたい、何かの意義を求めたいんです。宗教ってものはそうして出来上がるんです。
でも、私は相変わらず自分の存在に何も意義はないと思うし、こうなった経緯を自分で思うんですが、もはやここまで来たら、「完走あるのみ」で、経緯に意義なんかいらないです。自分の存在に意味なんかありません。
今の私には揺るぎない事実があって、それを愚痴なく受け入れられる「自分にゆとりある許容量」を持てるかどうかが問題であって、それだけが自分の中を「快適にする」か「しないか」を決めると思います。
金があったら、って思えばきりがないし、その弱みに付け込むビジネスも存在します。人はお金の少なさでも狂い、多ければ狂う性質を持っています。心にゆとりを失うんです。それ程魔力があるのかと申せばそうです。
ただ、うちに凄い裕福な親族がいましてね。で、インシデントかアクシデントか(秘密)で簡単に亡くなりました。コネも使ったんですけれどね。金があっても無理なものはあるんですよ。ただ、魔の匂う場所に、ビジネスが存在し、うわべだけの奇麗事では済まなくさせる事があるのも事実。
で、私が何故、ここまでドツボにはまっているか、考えて欲しいんですよ。「金じゃ満足できる医療が買えない」って言ってるんですよ。医学は万能じゃないんです。100%が存在しないんですよ。でも、それを責めたら、次の患者が助からないじゃないですか。自分がアンラッキーでも、ラッキーな人はいるんです。だから、医者を責めるだけじゃ意味がない。
まぁ、苦痛にまつわる人の弱みに付け込むビジネスは、何も霊感商法だけの専売特許じゃない。けれど、いつしかそのビジネスが、集金装置と化していくのは誰にも止められないし、いつでも次の獲物を待っている状態なんです。霊感商法よりあくどいのは、命の本当の危険性を盾に脅し強請るところですか。だけれど、現実は厳しい。どんな手段でもいいから救いたいと思う。救われたいと願う。
そして今日も日が暮れる。
朋
インシデントレポート:医療上、やむを得ず起きてしまった案件
アクシデントレポート:医療上、避けようとすれば避けられた案件