こんばんは。
誰でもそうだろうと思うんだけれど、行き詰るってよくある話だ。子供の小さな人生にだって行き詰まりがあるんだから、大人なんか、幾らでもある。
その行き詰まりを感じると人は、不平不満を簡単に口にするようになる。
その行き詰まりを解消する方法はただひとつ、簡単なように見えて、簡単じゃない方法。「希望を見つけること」。
全く簡単じゃないし、視野なんて一辺閉じちゃえば中々開けない。崖っぷちの方に進みたがる人は、先細りの話ばかり好きで、結局は崖っぷちへ進んでいく自分に対して、見て見ぬふりをする。自分が進んでいく方向が違ってても、最悪は人のせいにすればいいと考えてたら、くくる腹さえくくれない。故に、不平不満にて、崖っぷちへ進んでいくこととなる。
すれ違っていく時点で、どの点だったら引き返せるだろうかと冷静に判断できる人は少ない。
でも、その中で、あなたを待っている人がいる。その人が諦めたら、もう、どんどん加速がついてしまう。何が欲しいのか、プライドを守りたいのか、何を失いたくないのか、どうしたいのか。そこを考えていくと、結局損得勘定かよという話になる。
損や得だけで動くと、人は、いざって時の助け舟を失うことになる。
わたしの先日異動になった上司は、自身が大変な時にさえ、人を助け続けた。本当にエライ人ができることじゃないと思ったけれど、「そんなのやるしかないじゃないの。誰がなんと言おうと、わたしはやるわよ。」と言って、自分の立ち位置では決してやらないような末端の作業でさえも厭わずに行った。電話が鳴り続ければ、電話にもでる。恐ろしいことに、電話をかけた人はよもや、エライ人が電話に出ているとはつゆも知らないだろう。それでも、その人は行った。時間を惜しんで人に尽くし続けた。
慕う人が沢山増え、それが彼女の財産になった。そしてその慕う人が、彼女の希望となった。
希望とは、伸び悩んでいく見えない行先には、決して見えない灯りであり、伸び悩んでいるからこそ、見えないのである。
海で遭難したら、ひたすら漕ぐか、ひたすら待つしかない。飲み水だって限りがあるし、困ることもある。雪山で遭難したら、助かる見込みが全く見えない時だってある。一見絶望そうに見えることがよくある。でも、きっと何かどこかにあるのだと、焦る気持ちが余計に目を曇らせてしまう。希望は、タイミングで現れるので、辛抱強く、そのタイミングが現れるまで、現状をどうやったら維持し続けていかれるか、考えて待たねばならない。
希望の現れ方は、いつも気まぐれで、たまたまの偶然であるが、海で遭難した際に、あなたが、旅立つことを誰かに話していて、何処へ行くかを告げていたら、探してくれる人が出てくるかもしれない。山で遭難した際には、登山届けを出しておいたら、あなたの遅い帰宅を疑問に思う人も出るだろう。
それが、希望のつくり方である。
あなたを気にかけてくれる人を増やしていく。そして、あなたを慕ってくれる人を増やしていく。あなたの味方を増やしていく。味方は、損得で得た味方ほど、すぐに手のひらを返すので、こればかりは人徳としか言い様がない。そのあなたが無償で、人のためにし続けたことが、周り巡って、あなたの希望となって還ってくる。それを知る者はすごく強い。
不平不満は、どんな状態にでも必ず出る。でも、意外と、希望が見えると、不平や不満はなくなるもんである。だからこそ、人は、しゃかりきになって、その希望をみつけようとし、無茶な行為を行う。救われたい。誰かに、今の現状から、救い出して欲しい。でも、今のあなたに、一体、誰がしてくれるんだろう。
希望が見えると、世の中が晴れ渡った気がする。心は軽くなり、やる気もアップする。
でも、希望が見えないと、全く世の中、生きているのさえ苦痛になってしまい、眠れない夜も、眠っても目が覚める夜も出るだろう。
行き詰まる中で、行き詰まって、方角を変え、行き詰まって方角を変え、人はそうやって微調整の中で修正作業を無意識におこなって進んでいく。
あなたの希望はまだ、見えないか。
朋