気まぐれな一匹狼のブログ

ただの一匹狼が書き綴るくだらない雑記

問題に答えようとすること

2019年01月19日 03時40分46秒 | 日記

 どうも、僕です。もうすっかり2019年という感じですね。

 先日は成人式だったらしいですね。成人式といえば、僕は参加したのはしたけれど、ずっと退屈していました。まず成人したといっても、誕生日はとっくの昔に迎えていたわけだし、おまけに周囲の人間を見ても大人なのかどうかよくわからない感じだったし(むしろ何も変わっちゃいないじゃない)、そして何かが変わったり戻ったりするわけじゃないんだし、別におめでたくも何ともないじゃないか、だいたい今こうやって浮かれてる僕らの裏では苦しんだり命を落としている人だっているに違いないだろうに……といったような感想を持っていたのです。とはいえ、まあ、わざわざ他人が時間と労力を割いて祝ってくれるらしいし、久々に会う旧友の姿を見られるしで、ちょっとは良かったかなあ。

 新成人の皆さん、おめでとうございます(知らない人からの祝福メッセージ)。


 

 最近ね、問題に答えようとすることを、僕はもっと試みなければならない、と思うんですよ。

 たとえば、なにか質問されたとするじゃないですか。問いかけられる。しばらく答えを探す。そして答える。でもその答えはどこかで聞いた意見のパッチワークに過ぎない。あれ、これって僕自身が答えたことになるのか? 質問は他ならぬ僕がされたというのに?

 もちろん、他者の意見を思い出したり参照したりすること自体はいいんですよ。だって、自分の意見なんて所詮は他人のそれとの比較なしには成立しないでしょうから。

 しかし、他人の意見を知ってるというだけでは自分の意見を持つことはできない。自分の意見を持つためには、少なくとも話題に関する事実を押さえたうえで他者の価値観に触れ、自分と他者のズレに対して敏感になる必要があり、おまけにその違和感を言語化しないといけない。こうやった上で口にした答えこそが、質問に対する自分自身の答えと言えるのだろう、と僕は思うのです。

 別に自分の答えを持たねばならない義務なんてありゃしませんが、でもせっかく僕自身の答えを他人から欲してもらってる時くらい、きちんと答えてあげたいなと思いまして。……と言いながら、実際にそれを毎回やるかと聞かれたら、たぶん絶対やらないですけど。面倒くさがりなので。

 


お雑煮ですか? いいでしょう、教えてあげますよ、本当のお雑煮とはなにかをねッ!

2019年01月05日 01時26分22秒 | 日記

 今年はお雑煮がなかった……お雑煮がなかったんですよ!

 いやまあ、正確にはなかったっていうか、つくるのが面倒くさいというか、そもそもお雑煮が嫌いというか、実はお雑煮って何だったかわからなくて一瞬ググって「ああ、あれね完全に理解した」となったのがついさっきというのは決して人に言うものか!

 その代りにね、スパゲティー、そう僕は今年はスパゲティーを食べることにしたんですよ。ごろっと大きいミートボールにチーズをぶちまけたスパゲティーをね。おいしかったなあ。あんまりおいしいので、来年はラーメンにしようかと思ったくらいです。ええ、だからね、僕の家のお雑煮は今年はスパゲティーです。そして来年は、ラーメンです。

 ちなみに頼んだおせちを食べたところ、腹をくだしました。最高の厄落としでしたね。

 

 


今年のふり返りとか、新年の抱負とか

2017年12月31日 01時16分09秒 | 日記

あいさつ

年の瀬です。皆さまいかがお過ごしでしょうか。
僕は元気です。このあとめちゃくちゃ(ry



今年のふり返り

今年のふり返りとか、新年の抱負とか、そういうありきたりなやつを書こう。今年やったことは、三つある。はじめに、ラジオを聴くようになった。つぎに、YouTubeで海外の人々の「音楽グループ名・曲名・reaction」シリーズを鑑賞するようになった。さいごに、翻訳小説を読むようになった。すべて消費ですね。生産的な趣味も持つといいのかもしれない。しかしそれはまた別の話だ。


(1)ラジオ

ひとつめのラジオについて言うと、いま深夜ラジオが自分のなかで来ている。お気に入りの番組はふたつある。「星野源のオールナイトニッポン」と「JUNK爆笑問題カーボーイ」だ。しかし困ったことに、このふたつの番組がそれぞれ裏番組になっている。そのため、当初は奇妙な聴き方を強いられた。

リアルタイムで視聴するとしよう。選択肢は一方をあきらめるか、両方を半分くらいずつ聴くしかない。僕は頑固にリアルタイムにこだわった。だから隔週で二つの番組をたのしむことにしていた。しかしこれは物足りない。やがて二つの番組を半分ずつ聴いてみることにした。これはいい。しかし慣れるに従い、もっとそれぞれの番組をたのしみたいと思うようになった。振り出しに戻った。どうすればいい? 

すると啓示があらわれた。神と交信した。番組のCMでたびたび耳にするアプリ、ラジコだ。問題解決! いまはカーボーイをリアルタイムでたのしみ、そのすぐあとにオールナイトニッポンをラジコで聴いている。ラジコ、いいですよ。皆さんにも、おすすめしまッす(チェ・ジウ)。


(2)YouTube reaction シリーズ

ふたつめは、YouTubeの「reaction」シリーズだ。YouTubeで音楽を聴くのは、まあ皆さんもやっておられるでしょう。しかし僕はこのごろ単に音楽を聴くだけでは物足りなくなってきた。ある時、チラと目に入った「reaction」シリーズを興味本位でのぞくと、そこにはいろんな人たちが自分の反応をコンテンツにしている。たとえばこういうの(ランダムに選んだ)。

SEVENTEEN(세븐틴) - 만세(MANSAE) Reaction 케이티

僕はこういうのに疎いので、最初は「オマエ YouTuber? オレ シチョウシャ」という感じだったのだが、なかには結構おもしろい人たちがいる。皆さんもご自分の「好きな歌手 reaction」で検索してみてください。なかにはきっと面白い人がいますよ。僕のおすすめとか紹介したほうがいいのだろうか。しかし正直にいうと、いまはもう「reaction」シリーズには飽きた。来年は見ないだろう。


(3)翻訳小説

さいごに、翻訳小説。もともと本を読むのが好きなのだけれど、ここしばらく文学に関してはあまり読んでいなかった気がする。だから久々になにか読もうかと思って、とくに翻訳小説を読むことにした。ここでいう翻訳小説は、さいきん新しく訳された小説くらいを指しているので、原書の出版年は関係ない。だから古典作品であっても新訳が出たら翻訳小説にカウントする(もちろん詩や戯曲は小説じゃないので除外)。

結構読んだ気がする(正確に記録していない)。たとえば、カミ『三銃士の息子』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)、エガーズ『ザ・サークル』(早川書房)、グロラー『探偵ダゴベルトの功績と冒険』(創元推理文庫)、イシグロ『充たされざる者』(ハヤカワepi文庫)あたりは結構よかった。もちろん、ほかにも面白い作品があった。それからいま読んでいる最中の本もある(ユイスマンス『さかしま』河出文庫)。




新年の抱負


来年は、なにか生産的なことをやりたい。今年は、消費ばかりしていたような感じがする。もちろん両方やるのがいい。しかし、もう少し生産的なことをやる割合を高めたい。このブログを書くのも、その一歩だといえるかもしれない。まあ何はともあれ、2017年もあと一日だ。皆さん、よいお年を。来年もどうぞよろしくお願いします。


少年でなくなるということ

2017年06月10日 03時17分28秒 | 日記

 更新が滞って幾星霜、なんとなく久々に再開しようと思う。

 少年でなくなるということ、何かそういうような心境をここしばらく味わっている。いったいどういう状況で、その心境がやってくるのか? 体力の衰えとか、目がかすむとか、何かそういった身体的な疲労感に見舞われる時ではない。まだ何と言っても若い部類に入るだろうから、そういう経験はまだし得ない。ものを上手く覚えたり、思い出したりするのに困難を覚えるだとか、新しい概念を学ぶのに苦労するといったような知力の衰えも、実感のわかないどこかよそよそしいものである。理由は先に述べた通り。じゃあ一体何なんだと言われれば、もう『ゴールデンエッグス』を心から楽しめなくなった今の状況、これを意識せざるを得ない瞬間に至って、僕はもう自分が少年ではなくなってしまったのだという気分になる。

 僕にとって、『ゴールデンエッグス』を楽しめなくなるということと、少年でなくなるということは、どういうわけか同値なのだ。どうして他の作品、あるいはまったく別の何かを楽しめなくなることではないのかわからない。また、少年でなくなるということが一体何を意味するのか説明しようとしても、まるで雲をつかむみたいで、相応しい言葉は容易には得られない。これは、あくまで僕個人が経験した個別的で具体的な感情に他ならず、それを無理やりに普遍化しようとすると、まったくのでたらめになってしまう。この感情はそういう不安定さを抱えている。だから、もとより共感を得ようだとか、何か僕以外の人からの理解を得ようとしてこの記事を書いているのではないと断っておく。

 しかし、僕はそもそも少年の頃に『ゴールデンエッグス』を見て楽しんでいたわけではなかった。小学生の頃に楽しんでいたとすれば、間違いなく僕は少年の頃に楽しんでいたということだろう。けれども、もうすでに僕は小学生ではなかった(小学生で深夜にテレビを見る子がどれくらいいるだろう?)。とすれば、僕はきっと、「身体が気持ちに追いつかない」と言って自分が老人であるという事実に哀しみを抱きつつ思い至る感覚、それに近い感情を経験したということなのかも知れない。

 少年とは一体何だろう。僕はそっと目を閉じて、少年を思い浮かべる。少年は学校のグラウンドでボールを追いかける。また図書室で図鑑を読み耽り、物語に感動する。特に大したことでもない物事であっても、胸を高鳴らせ、心に留めたりする。少年は爽やかな風のただ中にあって、木の葉の波の調べを耳にする。少年は空を見上げ、空から地上を見下ろすとどんな景色が見えるだろうと想像する。僕は目を開けた。もう少年はいない。


自虐に見られる捏造

2015年08月30日 23時22分56秒 | 日記

要約

自虐や自嘲は、しばしばこちらを攻撃する隙を狙ってやまない他者像や、漠然とした曖昧語をそれらしい感じで使用するなどの誤った前提に基づいている。これには、誤った前提の特定および反駁という意味での吟味と、吟味によって得られた正しい思考への緩やかな適用が良策だろう。




僕には困った癖がある。しばしば心の中で自虐的に、自嘲的に独白するのです。これはもちろん僕に限って見られることではないので、これから述べることに多少は意義があるかもしれません。ただしこの記事がこの癖を滅し去るという意味合いでの意義を持っているとは思いません。自虐癖に対して冷静な視点を与えるかもしれないな、とは感じています。



自虐癖とはそもそも何か。個人的には、「事あるごとに自他に向かって自己の欠点を暴力的に突く、という癖」だと考えています。たとえば、自分は頭が悪いと考えている人は、頭が良い友人と話している時、「どうせ自分は馬鹿だから」と言わなくてもいい言葉を付け加えたりする場合があります。このように、当人が「欠点」だと意識していることを、その人自身でわざわざ攻撃したりすることを、自虐癖だと考えます。


では、それはどのような状況で、なぜ表に出てくるのか。先ほどの例で言うと、自分で頭が悪いと思っている人は、自分とは反対に頭の良い人を前にすると、自虐的になるのではないでしょうか。つまり、自らの持つ欠点が他人にあっては美点となり変わっている場合に、自虐や自嘲は顔を見せるのです。その原因としては、自分の場合を観察する限りでですが、予想される他者からの批判を先回りして自らを守ろうとするから、だと考えます。


もう一度先ほどの例で見てみましょう。自分で頭が悪いと思っている人は、賢いと認めている人から批判されるのを恐れています。 しかし「事実として自分は頭が悪い」と、この人は自分のことを考えているので、今この場ですぐさま賢くなる以外の方法で身を守らねばならない。そこで選ばれる方法が、他人より早く自分を馬鹿だと罵ることで、他人から攻撃されるのを避けようとするものです。


ではどうすれば、この自虐癖・自嘲癖を緩和することができるでしょうか。もしこれらを克服する方略が存在するなら、 いやしくも癖=習慣であるからには、習慣一般についても有効だと考えられます。先に言ってしまえば、吟味と小さな適用の積み重ねが有効な方法だと思います。


ここで言う吟味とは、「精神的習慣を形成している前提を突き止め、それを疑う」ということです。 先ほどの例に戻りましょう。「自分は頭が悪い」という考えを持っている人にこれを適用すると、「自分は頭が悪い、と思っているが、それはなぜか」「そもそも、頭が良いとはどういうことか」「頭の良し悪しは、不変なものか」などと質問が浮かんできます。これらの質問に答えるために、頭が良い、あるいは悪い、ということをそれぞれ定義します。そしてその定義に無理はないか、反例はないかを考えてみます。そうすると、案外、自分が漠然とした曖昧な「感じ」に支配されていたことがわかるでしょう。僕個人の場合で言うと、一口に「頭が良い」と言っても、状況や文脈によって使われ方が異なるし、しかもこれを構成する複数の要素があるらしいので、未だに「頭が良い」「頭が悪い」の定義はできていません。だから、自分が知りもしない概念で自分を不快な感情を伴いながら攻撃するのはナンセンスだな、と今では思っています(注1)。



さらに「自分の欠点を攻撃する他者」などというあまりに偏った他者像を吟味することも、自分の経験から言うと、有効でした。また別の視点からも考えて、もしかりに今目の前にいる他者がそういう自分が思った通りの人間であったとしても、その人の判断と自分の価値とは一切関係ない、と再確認することも個人的には良いものでした。他人が口出しできるのはその人の「した事」であって、その人「そのもの」ではないはずです。なぜなら、行動は修正できても存在そのものはどうにも変わりようがないからです。僕はどうあっても僕なのですから。




(注1)強いて言うなら、たいていの場合に問題になる「頭の良さ」というのは単に、「問題解決に要する知識の体系を持っており、かつ流暢にそれを使用できる」ということに思われます。 試験などで測れる「頭の良さ」というのは基本的にこれだろうと思われます。だから、この定義からすると、「頭の良さ」は習得可能であることがわかりますね。言い換えると、試験合格という問題解決には、必要な学習をすれば良いだけです。自分の一般的能力の欠如のせいにするのは、問題の意味を取り違えているとしか言えないでしょう。


 

追記


他にも、精神的な能力と類似したものを探してきてそれと比較するなどしても良いでしょう。たとえば、筋力です。筋力トレーニングに関心のある人なら、有名な三つの法則を知っているでしょう:(1)筋力は、適度に使えば発達し、過度に使えば故障し、全く使わなければ衰える(ルーの法則)。(2)筋力は、トレーニング内容に応じて特異的に発達する(特異性の原則)。(3)筋力を向上させるには、漸進的に負荷を高めていくと良い(漸増的過負荷の原則)。これらと精神的活動の類似性を指摘できます。たとえば、計算をする、漢字を書くなどという簡単な精神活動でさえ、まったくやらなければ段々流暢さを失ったり思い出しにくくになります。さらに、英単語を暗記しただけなのになぜか数学の証明が得意になったということはありえないでしょう。
また恐怖を克服する方法として、いきなりその恐れているもの(たとえば水泳)をやろうとするのではなく、何段階か困難度を下げてから徐々に難しいことに挑戦する、という方法を取ったほうが良い場合が多々あります(プールサイドに座って水に足だけ浸かってみる→浮き輪を付けてプールに入ってみる→浮き輪を付けた状態でプールを歩き回ってみる→……など)。