気まぐれな一匹狼のブログ

ただの一匹狼が書き綴るくだらない雑記

つぶやき――社会人とは

2015年04月02日 02時16分41秒 | 日記


社会人という言葉に対して違和感を感じる。
その言葉の意味は、ほとんどの場合、単に契約によって労使関係に入ったということに過ぎないか、あるいは賃金と引き換えに何らかの価値の生産活動に従事するようになった、ということのようです。

社会人とは、賃金と引き換えに労働を提供する人間だけを指すのか。社会人とは企業人のことなのか。もしそうだとすれば、その背後には、「労働を提供する人間の職場=社会」とする考え方があるように感じます。あるいは「企業内・企業間の活動すなわち社会」という風にも言い換えられそうです。

では、たとえばその社会人(男性としておこう)の私生活を支えている主婦は何者なのか。老人ホームに暮らす高齢の人々は何者なのか。企業や職場の外はそのまま社会の外だと言えるのでしょうか。むしろ職場や企業といった場は、社会の一部に過ぎないのではないでしょうか。 

ならば社会人とは何なのでしょう? 思うのですが、そもそもからして、私たちはある社会に生まれた人間であるはず。その中でどのような位置を占めていようと、私たちは社会に属する人間なのだから、社会人と言って間違いないでしょう。たとえば、田中くんが学生であり、鈴木さんが医者であり、藤原くんが専業主夫であったとしても、皆それぞれ社会人だと言えないでしょうか。また山田くんも、彼がもしニートであったとしても、社会人だと思われます。

つまり、ある社会の構成員である人間ならば、誰でも社会人であると私は思うのです。 




ちょっと待って! カモにならないために

2015年03月29日 15時50分18秒 | 日記


今日はカモにならないためのポイントを書いてみようかな、と思います。


たとえば、もしあなたが何か新しい事を始めたいと考えているとします。しかし困ったことに、それについてまったく/少ししか情報がないとします。そのような時に、まずやる事は情報収集なのですが、ここに注意が要ります。 それは情報に振り回されないことです。

ではどうやって情報に振り回されないようにできるか? 答えは簡単です。それはあなたが既に習慣としている事/できる事について、あたかも今からそれを始める人間であるかのごとく、情報収集してみる事です。

すると次のような事が判明するでしょう。他人が言った/書いた事にはどれもこれも「違和感/ズレ」がある。また、A が言ったことと矛盾する B の結果があったりする。裏を返せば、 問題解決(この場合は新しい習慣の獲得)に際して、もっとも有効なのは自分自身の試行錯誤だ、と言う事です。 

もっとも避けるべきは、いろいろな方法をその真偽を検証しもせずに頭の中に蓄えることです。勉強法「には」やたら詳しい受験生などはその悪い例と言えるでしょう。


他人の言動や他人のデータに依存するのではなく、ある程度情報収集が済んだら、もうそこからはあなた自身の実際の記録・失敗から学ぶべきだ。




『かぐや姫―姫の犯した罪と罰』感想

2015年03月14日 18時14分10秒 | 日記


 昨日、途中からではあるけれど、タイトルの映画を鑑賞しました。全体的評価としては、まあ良かったです。 殊に平安朝時代の貴族と庶民の生活様式やその他諸々(寝殿造り、牛車など)がよく描かれていて、復習にもなったし、面白かったです。

 しかし多少気にかかる点がありました。①かぐや姫の名づけ祝い(?)の場面②姫が帝から姿を消した場面③捨丸との最後の対面の場面、の3点です。②は今思いつきで付け加えたもの。これについては、要するに、「姫の精神性(強烈な自我、自立心、主体性)と、時代(男尊女卑、階級社会)および権力(父、貴族、天皇)との相容れなさ」を表しているのか、または「姫の超自然性」を示唆するものなのだろうか、という疑問があります。 あまり深追いはしないつもりですが、あの場面で描かれた事実に着目すると、・帝が姫に惚れ、背後から抱きしめる→・姫、ぞっとして離脱→・姫が姿を消し、帝は姫に姿を現すよう乞う→・姫再び現れ、帝日を改めて訪れる旨を告げて帰るとなりますよね。帝の発言を思い起こすと、(I)どんな女性も帝の寵愛を望んでいる (II)故に帝が望めば、どんな女性も帝のものになる、と言っていました。しかし、かぐや姫は帝の妻になることを望まずにこれを斥けた。そこで、先述したような疑問が浮かんだ、というわけです。前者であれば、月は字義通りの月であることをやめるでしょう。

 さて、①と③について述べたいと思います。①は、かぐや姫の成人の祝を兼ねての酒宴でした。招かれた客どもが酔いの勢いに任せて馬鹿騒ぎをしている頃(これは三日三晩続く)、かぐや姫は顔を出さずに、従者と共に御帳台(?)で静かに過ごしている。すると一人の客人が翁に絡み、姫を見せろ(必ずしも字義通りではない)と無理を言って、愚かにも姫のいる所へ行こうとする。問題はここである。「件の男は姫の元に来たのか否か」。 劇中の描写では、・姫、客人の会話を聴き、ショックのあまり手近の貝を割る→・そのまま外へ逃走→朱雀大路(?)で着物を脱ぎ捨て軽装に→・乞食に見紛われるほど乱れ、山にたどり着く→・そこで赤子とその母と会う→さらに進んで職人(?)と話し、春になると山は草花を咲かせ、捨丸たちが戻ってくることを聞く→・姫、雪のただなかを歩き、倒れて眠る→・ 目覚めると、元の御帳台で元の姿で寝ており、近くに従者も寝ている→・しかし貝は割られている、となっていました。
 
 少なくとも貝を割ったのは事実でしょう。ではその前後の描写は事実なのだろうか? そもそも件の男が存在したのだとして、(I)かぐや姫の所へ行こうとしたが、何らかの事情で(気が変わった、酔いが強くて眠ってしまった、翁に説得されてやめにした等)行くことができなかった、 (II)姫の所へ行ったが、姫が寝ていたので、顔だけ見て立ち去った、 (III)姫の元へ行ったばかりか、恥ずべきことを行った、の 3 点を鑑賞中に思いつきました。それぞれ見ていきましょうか。まず、(I)については、あの後全く姿を現さないし、話にも出てこないので、なさそうです。(II)も同様の理由でなさそうです。かぐや姫の美しさを見たら、仮にその場で思いとどまれても、やはり後から迫ってくるでしょうから。 (III)については、かぐや姫の服装や髪にまったく乱れが見られなかったので、これもないでしょう。あの男が姫を丁重に扱うとは思えません。 それに傍に従者もいましたし。参考までに帝の場面(②)と比較すると、姫の「恐ろしくぞっとする」描写が共通して見られます。そしてその後にちょっとした異常な事が起こるのも共通しています。ここから、かぐや姫は(IV)感情が急激に高まると、何らかの異常事態を引き起こす/超能力を発揮する、といったことが言えるでしょうか?(笑) 


 ③については、(I)捨丸のみがかぐや姫の声を聞いて、彼女の元へ行ったこと、(II)かぐや姫は人目につかない草地に居たこと、(III)二人で駆け落ちしたはずなのに、しかしそれは夢だったのか、捨丸が目を覚ますと彼一人が元の草地に居たこと、が引っ掛かる。そして色んな疑問が浮かんでくる。なぜ捨丸にしか聞こえなかったのか? なぜかぐや姫は人目につかない草地に一人で彼を待ち受けていたのか? 駆け落ちすることにした二人は空を舞うが、なぜ空を舞うのか(これは恐らく、感情の高まりを表現)? なぜ、二人が山里の上を飛んでいくつもの季節を越えたように描かれているのか?  なぜ空中浮遊の終盤でかぐや姫は「もっときつく抱きしめて。でないと離れ離れになる」と言ったのか? なぜかぐや姫は、捨丸の力の限りの抱擁にも拘わらず、海に落ちたのか? なぜ、海なのか? なぜ、海が大きくまた激しく飛沫を上げたのか? なぜ捨丸が目覚めた時、かぐや姫は居なかったのか? ・・・等々。これは一つの仮説に過ぎないけれど(個人的にはもっともそうあって欲しくない邪推)、二人の草地での再会は人目を忍んだ逢瀬であり、空中浮遊は昂ぶった恋心を表し、山の季節の巡りは時間感覚(二人の主観からすれば濃密な、しかし客観的には早急な)を示唆し、姫の発言はもう今後二度と彼と会えなくなることを思ったが故のそれであり、海の飛沫は多義的にフィニッシュを表す。要するに、不倫です。ジブリ映画が基本的に子供向けである以上、直接的描写を避けねばならなかったが故の技巧的表現だったというわけです。・・・・・・しかし、しかしこの説は単なる邪推の域を出ないものだし、またそうであって欲しいと思います。

 以上が今回この作品に対して抱いた疑問点(と嗤うべき推論)です。本当はもうちょっと詳しく述べたり書き加えたりしたかったのですが、何せ記憶が曖昧だし、そもそも本編をフルで鑑賞したわけではないので、これくらいで止しときます。しかし、一つだけ言っておきたい。主人公が外的条件に弄ばれた挙句に、最初持っていた溌剌さや愛や純潔を奪われていき、しかも結局救いのないままに終わる物語は、あんまり好きになれない、ということです。 しかし今回の作品について言えば、機会があればまた鑑賞するでしょう。あくまで全体的に見れば、良い作品だと思います。


 


ちょっとした後悔

2014年12月31日 15時02分32秒 | 日記

もう 2014 年も終わりですね。「もう」ではなく「やはり」と言った方がよいのか、「しかし」と逆接的に言うべきか、「あるいは」と言ってみるのがよいのか、まあ、何はともあれ今年も終わりです。

さて、前置きと何の連絡もつけずに今年僕が経験した個人的な話をしたいと思います。先日のことです。普段は近寄りもしないのに、なぜかその日は古本屋に立ち寄ることになったのです。古本屋というのは、たとえば「ブックオフ」とか「古本市場」とかそういう類の店です。個人的にああいう店の雰囲気はあまり好きではないし、むしろ嫌ってさえいるのですが、僕は何となく入ってみようと決めたのです。

店内をぶらっと見て回ったところ、やはり興味を惹くようなものはありませんでした。そこではやかましい子供の声と、体験版のゲームにのめり込んで荒々しくボタンを連打するおじさんやその仲間たちとがその場の雰囲気を決定していました。なかばゲームセンターと化している古本屋に、何の目的も持たずにただぼーっとしてうろつく自分が、だんだん滑稽に思えてきました。

そこで家に帰ろうとして、売り場から出口に抜けようとした時に、ふと目に留まった物がありました。それはわけあって安く売られている商品がうず高く積まれたワゴンだったのです。そのまま帰ってもよかったのですけど、なんとなくその中のどれかひとつを買ったほうがよい気がして、立ち止まりました。10 分ほど考えた末、 Grand Theft Auto という、昔友達に遊ばせてもらったゲームを買うことにしました。どんなゲームだったのかあんまり記憶に残っていませんでした。暗殺稼業の人間が主人公だったか? 筋書はスパイになって北朝鮮に潜入、金正恩を仕留める話だったか? まあいろいろ空想して期待していたのです。

家についてから、さっそく遊んでみることにしました。物語は、こんな感じです。ドミニカ出身のヴィクターという人物が、病気に苦しむ弟の医療費を稼ぐために軍に入隊して昇進を狙っている。ある日、上官の何某(名前忘れた)から使いを頼まれるのだが、それは実は麻薬取引である。彼は、こんなことはこれっきりで、今後一切絶対に係わらないという決意のもと、その取引をこなす。後日、彼は上官からまた使いを頼まれる。今度は売春婦を内密に基地へ連れ込むという話である。そうして女を車に乗せて基地に戻ると、女を連れているのが見つかり、加えて先日の麻薬(彼がそれを持っておかねばならず、それをベッドの下に隠していた)についても詰問され、ヴィクターはついに除隊される。しかし彼には依然として金が必要だ。彼は渋々、この街の金になりそうな話に手を染めるようになる……。

なかなかヘビーじゃないですか。こういう筋書は結構好きですよ。「それで次はどうなる?」とか思いながら楽しく遊んでいました。しかしそれも最初だけで、しばらくやってるとだんだん飽きてきました。「昔はあんなに面白く感じたのになあ」と不思議に思いながら、「じゃあほかのゲームならどうだろう?」とほかのゲームもやってみるのですが、今度も面白くありません。6 年くらい前だったら、もっと楽しめていただろうけど、今はだめです。あの頃はほとんど毎日 FPS をプレイしてても飽きなかったのになあ……。

久しぶりにゲームで遊んでみたけれど、全然楽しめないからちょっと後悔しました。ああ、どうして僕はゲームを買う気になったんだろう? 最近はゲームよりも、散歩のほうが楽しいです。


追記

ゲームでも、ボードゲームはどうやら好きみたいです。FPS も、ひょっとするとサバゲーに変更したら楽しめるかもしれませんね。


つぶやき

2014年12月14日 13時33分00秒 | 日記


僕が世界を認識するとき、そこには僕と世界の二つしか存在していない。主体と客体があるだけで、両者の間には何の媒介も存在しない。なぜなら主体である僕は世界を認識する能力くらいは持っているだろうから。もし、僕が世界を認識する際に、おそらくその人自身世界に対して主体である他人に僕が助けられる状況に置かれたとしても、僕にとって彼/彼女もまた世界の一部にすぎないのだから、つまるところ僕は世界と対面しているにすぎない。僕は徹頭徹尾この世界と死ぬまで向き合い続けるのだ。

しかし奇妙なことに、僕の物理的側面はこの世界と密接不可分ときている。では僕が最初に述べたことは誤りだろうか? 僕がもし純粋に一個の物質にすぎず、今こうやってくだらない文章を書くような精神的活動すらもが単なる電気刺激とその受容みたいなものだとすれば、主体と客体という認識は誤りかもしれない。しかし仮に人の精神の働きを物理的な観点から説明可能であったとしても、それがそのまま精神というものの最後的説明となるだろうか。そのうえそのようにして説明された精神なるものは、結局のところ僕たちの感覚(おそらくは視覚がメイン)の知覚の描写ではないのか。だとすれば、物理的な観測から得られるものは、僕たちの知覚体系の範囲内に限定されているのだから、その範囲を越えたところに存在するものを説明することが可能なのか疑問だ。

物理的側面からの説明をとりあえず脇に置いておくとして、では最初に僕が述べた命題はいったい何に依拠しているのだろうか? 読み返してみると、僕は二項対立を前提としているが、その世界観をそのまま受け入れるなら僕が僕自身を乗り越えて僕を見つめることはできない。したがって僕は自分が世界を認識する主体と言う時、僕自身の感覚に依存していることになる。ならば物理的説明に対して抱いた疑義が、ここでもまた僕に突きつけられるのではないか。それに物理的観点より一層たちが悪いのは、僕は専ら気紛れな思弁のみで世界を云々しようとするところだ。したがって、僕は自分が最初に提出した命題を破棄しなくてはならない。

結論: 僕は何も論じてない。