気まぐれな一匹狼のブログ

ただの一匹狼が書き綴るくだらない雑記

ああ、ドラゴンボール

2014年12月07日 11時48分36秒 | 日記


 『ドラゴンボール』がまた映画化するらしいですね。前回のやつではスーパーサイヤ人ゴッドとかいうのが見れましたけど、今回のはフリーザが復活する話だそうです(なんでフリーザ?)。個人的にはセルがよかったけどなあ!

 セルならサイヤ人の細胞を持っているんだから、修行すればとんでもなく強くなれそうだし、しかも悟空とかベジータの技を全部使えるらしいしで、考えるだけでめちゃくちゃワクワクするじゃないですか。そもそも悟空とベジータの細胞が取り込まれてるんだから、言ってみれば「ベジット+その他諸々」の状態じゃないですか。たぶん、一番強くなるとしたら本気で修行したセルでしょう!

 閑話休題。『ドラゴンボール』は昔から好きだし、よく見てたんですけど、最近の画風(アニメのやつ)はあんまり好きじゃないんですよね。なんかテッカテカしてるし、変に色調が明るいし……。

 『ドラゴンボールZ』 の時は絵が上手い回と下手な回があって、それはそれで「安定しないなあ」と気になってました。一方で、最近のやつは安定してはいるけど、さっき言ったような感じだし、なんだかなと感じています。

あ、ちなみに最近の画風が云々っていうのはもちろん、『ドラゴンボール改』とかいう『ドラゴンボールZ』の使いまわしのほうではなくて、映画とかCMとかの最近の人が書いている絵のほうです。あと『改』のオープニングとエンディングも含めてます。

とまあ、幼稚で阿呆みたいな文章を長々と書いてしまいましたけど、要するに、ドラゴンボールをアニメ化する時はもうちょっと迫力満点にかつ原画に忠実に描いてほしいなあ、という文句だか希望だか、ともかくそういうことを言いたかったのです。




ぼんやりとした不安

2014年08月21日 00時31分32秒 | 日記

 見物人の足音はすでに遠のき、必然管理は日を追うごとに甘くなり、今となっては管理人も席を離れて行方が知れぬ。もう誰からも顧みられず、荒れ果てた不毛な空き地となって、その存在価値を問われれば沈黙をもって答えねばならないようになってしまったブログが、ここにある。土地が持っていた(かもしれない)生産力は失われ、ただどこかの業者の立て看板――土地と同様、芸のない不毛な広告――が、目につくばかりである。

 わたしは埃っぽい部屋で目が覚めた。床一面が本で散らかっているから、ただでさえ狭い部屋が尚更に狭く感じられた。その日は特に何もする事がないし、行く宛てもなかったので、散歩に出かけた。陽はまだ中空に輝いている。地面を踏みしめる一歩一歩に、さらにいちいち力を加えながらずんずんと歩いた。「今日はこのまま二時間ほど歩いてみようか」とさえ、思ってみるほどに体力の充実を感じていた。

 家を出てから一時間が過ぎようとしていた頃、わたしの眼は「不毛な土地」を認めた。それはたしかに噂通り荒れ果てており、その前を過ぎ行く者の誰一人として、一瞥をくれてやる者はいなかった。わたしが「不毛な土地」を眺めていると、そっと耳打ちする人があった。「あんた、何見てるんだい? 悪い事は言わないから、さっさと通り過ぎちまいな」。わたしは、「いや、いいんです。ここを見ていると、なんだか懐かしく感じるんです」と答えた。

 耳打ちした人はやがて群衆の中に消えた。「けっ、あんたも腐ってな」と言ったような気もするが、あるいは空耳かもしれぬ。わたしはただ「不毛な土地」をじっと見入るばかりであった。そして自分と土地と、そのどちらとも関係のないどこかへ向かう群衆との間にある深淵をはっきりと認識した。深淵の深さはわからない。ただそれが存在しており、こちらとあちらとを断絶しているのだということを知るのみである。一度わたしはその深淵を覗き込もうとしたが、恐ろしくなってやめにした。

 自分は今、「不毛な土地」の前にいる。耳打ちした者はもうとうにいないが、その言葉は今なおこの耳を打つように思われる。自分と土地と、群衆という図式的に過ぎる対立が頭から離れない。その意識が内容において真であるか偽であるかはどうでもよい。それが自分が勝手に作ったものであるか否かについても追求しない。ただ、それがすっかり消え去ってしまえばいいのにと思う。この意識のために、自分はぼんやりとした不安に襲われる。


注) 久々にブログを更新しようとしたら書くことがなかったので、適当に書いてみたのだけれど、なんだか暗い感じになってしまった(笑) もし、このブログをご覧になって筆者を心配してくださる方がおられるとすれば、すいません。筆者はここで書いたような妙な意識に憑りつかれてはおりません。あと、芥川龍之介の書簡(遺書だったか)とは全く関係ありません。


修養の門出

2014年02月10日 17時04分03秒 | 日記


  これまで何冊かの本を読み、非常に共感させられたり、納得させられたりしたことが何度もある。けれども、よくよく考えてみると、それらの中でいったい幾つが実際に「自分のもの」になったのかは疑問だ。いや、疑わしいどころか、ほとんど身になっていないのである。本から教えを受けようとしたけれども、右から入って左へと抜けていく。これではただの空費だ。

 頭の中には古今東西の尊敬すべき偉人たちの言葉が蓄えられている。わざわざ原本を参照せずとも引用することは、今ではそう難しいことではない。しかしそれらは「彼らの体験」であって決して自分のものではないのだ。彼らの言葉に僕は親しみを覚えるけれども、一方ではどこか余所々々しくも感じられる。何度も読み返したというのに?

 僕は気づいた。要するに、「論語読みの論語知らず」だったのだ。良い習慣の獲得が目的のはずだったのに、いつの間にか良い習慣の目録を作ることにシフトして、最終的にその目録とみじめな自己との比較に落ち着いてしまっていたのである。僕は絶えず目標を目前に置いて、自分の不足分を無意識のうちに強調させていた。そこには実践もなければ、改善もない。目的化した自己観察と呵責癖の確立が僕の取り分だった。

 実践的な本――つまり、物事の真偽を読者が検証するべき本――を読むに際して、読者がもっとも忘れてはならないことは、実地にあたって試してみるということである。皮肉なことに、このことに気付いたのは他ならぬ「読書」によってであるけれども、事実はやはりこうに違いない。

 「読者も容易に気づくであろうように、」と、ある著述家は言う。「あらかじめあらゆる良い習慣の完全な目録をつくるよりも、実際に一つの良い習慣から始める方が、かえってずっと有効である」そろそろ自分自身の実験を積み重ねるべき時が来たようだ。



止まれ! メロス

2013年04月10日 19時43分53秒 | 日記


 「テンプレート変更を食い止めるには記事を書くしかないのか!!」メロスは激怒した。かの邪知暴虐、gooに欺かれ、裏切られ、憤慨しているのである。「ならば」とメロスは言った。「ひとつ、あのgooの奴をウフン♪と言わせるものを書いてやろう!」彼は書斎に腰をおろし、おもむろに筆を執るとうんうん唸りだした。

 
 一時間が経過しようとしていた頃、我らがメロスはまだ「うんうん」と唸っていた。彼はいつになく勤勉であった。ところが彼は平生が怠け者であったから、慣れない種類の仕事の要領をなかなか得ない上に、意識を一点に集中させるということにかけては恐ろしく不慣れであったから、疲れてとうとうやめにした。


 「あれほどうんうん唸ったんだ」と、メロスは言った。「こりゃあ大作だろう!」彼は自分のうんうんがいかなる実を結んだのか確かめようと机上の紙を手にとった。まだ最初の一文字を読まぬうちに彼はそこに書かれている――書かれているはずの文章についてあれこれ空想を膨らませて嬉々としていた。そして視線を紙に移した。次の瞬間、彼は自分の受けるべき報酬を手にした。

 
 結局のところ、彼は誤解していたのだ。彼が一時間かけてやっていたことは「文章を書く」ことでも「文章を考える」ことでもなく、ただうんうん言っていただけだったのである。こうして、メロスは無知から徒労を刈り取り、空しさの果汁を吸った。




9月1日(土)

2012年09月01日 20時46分12秒 | 日記


「だーるまさんが、ムキムキだッ!」




お久しぶりです。
いや、本当に久しぶりですな、こうやって記事を書くのは。

前回はgooにテンプレートを強制変更されちゃったので、なんだかよくわからないけれど、とりあえず記事をぶっ込んだ感じです。だから実際にこうやって更新するというのは本当に久しぶり。



さて、今日はですね……。最近読んだ本でも紹介しようかなって思います。(実は以前から紹介したい本がたくさんあったんです)

『遊戯の終わり』 コルタサル作/木村榮一[訳](岩波文庫)

これはアルゼンチンの作家フリオ・コルタサル(1914~1984)の短編集です。多分、ピンと来る人はそんなにいないんじゃないかと推測します。だって僕自身、初めに抱いた感想が「アルゼンチンのサッカー? メッシ?」でしたから。

まだ読み残してる作品が結構あるけれど、実際に読んでみた感想としては、基本的に奇妙な感じの作品が多いですね(あと暗い)。いくつか紹介してみたいと思います。

一番最初の「続いている公園」という作品はかなり奇妙ですね。しかもこの話はめっちゃ短いです(3ページ!)。話は、書斎のひじ掛け椅子に腰を下ろして小説を読んでる男の元へ、小説の中の男がナイフを手にやって来るというもの。……とまぁ、筋だけ言ってしまえばそれだけの話なんですけれど(笑)。まぁ、実際に読んでもらえると面白いはず!こういう物語で重要なのは細かい設定(例えば主人公の書斎は樫の木の公園に面している)と、描写だと思います。

この作品では「現実」と「非現実」の境界が取っ払われていきます。主人公が小説を読み始めた時にこんな言葉があります。「(中略)たちまち小説の架空の世界に引き込まれた。読み進むうちに、まわりの現実が遠のいてゆく。」主人公は単に小説を読んでいてそう感じたわけですけど、まさかそれが「本当に」起こっている事だとは気付いていません。

本来ならば「観客席」としての安全な日常から、小説という「舞台」で繰り広げられる非日常を眺めることができたのに、しばらくして辺りを見てみると座っていたはずの席がなくなって、気付けば自分は舞台上に座っているような。あるいは、そもそも観客席というのも実は単なる舞台のセットであって、観客は気付かずにそこに腰掛けてしまっているみたいな(この場合、観客は自分を観客と思い込んでいただけなのか?)。そういう感じで、「現実って何だろう? 意外と不確かなものなんじゃないか?」と考えさせられます。(ドラえもんとか画面から出てきたら嬉しいんですけどね……)

と、ここまで書いてみて、思いのほか一作品だけで長くなってしまった。あんまりだらだら書いてしまうと面白くないと思いますので、後は本当に簡単に。


「旧 友」

これは他の作品(「続いている公園」「誰も悪くはない」「河」とか)とは雰囲気が違ってる。奇妙というよりも、運命のいたずらに翻弄されて可哀想だなという感じを受けた。反社会組織のNo.3が、上からの指令で、チンピラ時代の旧友を暗殺するはめになるっていう物語。


「誰も悪くはない」

結婚祝いの品を買おうと、先に店に妻を待たせていたけれど、約束の時間に間に合いそうにない。焦ってピッチピチのセーターと格闘しているうちに十二階の窓から飛び降りてしまう男の話。


以上です。他にもいろんな作品が収録されています。もしよかったら読んでみてください。