リバーリバイバル研究所

川と生き物、そして人間生活との折り合いを研究しています。サツキマス研究会・リュウキュウアユ研究会

2022/07/27 飛燕の工具箱

2022-07-27 23:57:15 | あなたをわすれない
飛燕の工具箱
 
飛燕の工具箱
「もしかして、お父様がつかったものかもしれませんね」
姫路工場に残されていたという持ち出し用の工具箱をさして、博物館の学芸員のかたは言った。
がっしりした、しかし、金具はサビ、古びた革で覆われた持つ手のついた工具箱が陳列ケースの中にあった。
 各務原の航空博物館。展示スペースに入ると、飛燕は、機頭をまっすぐにむけ、来場者を迎えている。塗装を無くして、アルミ合金の地金そのままの姿をみたときに、心が震えた。
 おやじは、これをみたかったのだろうか。
 
 飛燕の周囲には、設計者の資料などが展示されているが、ボクの関心は操縦席の後ろ側にあるという空間だった。機体の周りにはひくいロープが張られているが、360度から機体を見ることもできた。二階の休憩場所からもコクピットの中を見ることができたが、操縦席の裏側は見ることができなかった。
 しかし、その空間が広くはないことは、外から見ても理解できた。そして、窓のようなものは無い。親父は、その空間に押し込まれて姫路から岐阜の飛行場へ来て、エンジンを整備して、また姫路の基地に戻ったのだろう。
 親父から聞いたわずかの言葉は、「外など見えない」「毛布にくるまって転がっていた」そして、「酸素マスク」。そこから推定されるのは、親父が乗せられた飛燕は、高高度への飛行試験をおこなう機体だっただろうということだ。米軍の大型爆撃機のエンジンには、高高度飛行可能な過給器(スーパーチャージャー:燃料に圧力をかけてエンジンに送り込む装置)が取り付けられていた。しかし、日本の迎撃戦闘機には過給器をそなえた機種はおおくはなかった。飛燕には、本土防衛のために、高高度での飛行能力をたかめる過給器の設置が必須であっただろう。その試験飛行を行っていたのではないのか。
 
 米軍のB29爆撃機の飛行高度は一万メートル。迎撃する攻撃機もその高度まで飛行するには、操縦士にも特別な装備を用したはずだ。現在のパイロットは加圧服という圧力を加えることが可能な飛行服を使用するが、当時も同じようなものはあったと思う。しかし、親父は平地の服装のままで、毛布にくるまって、酸素マスクを口にあてていただけらしい。断熱材などは無かっただろうから機体は冷え切っている。飛行訓練など受けていない整備兵が、よく耐えられたものだ。
 機体の中の空間をみることはできないか。飛燕の展示スペースの暗がりに、案内?監視の女性がひっそりと立っていた。彼女に、操縦席の中を見る機会はないのかと尋ねてみた。すると、コロナまえには、中を見ることができる階段が設置してあったという。しかし、今はその予定は無いということだった。
 
 諦めて、飛鳥という短距離離着陸機の展示を見に行く。飛鳥が最後の飛行をして各務原に着陸した日、ボクは長良川の堤防から、低空飛行で岐阜のまちを横切っていく飛鳥をみていた。
 飛鳥もフェンスに囲まれたいたが、作業服を来たご年配の方が、フェンスを越えて中に落ちたゴミを拾っていた。ボクはその方に、飛燕の座席の裏側をみる機会はないものか。と尋ねてみた。
 私は、清掃員だからできないが、飛燕のそばにいる女性に専門家に会いたいと話してみたら会えると、彼はいった。
 先程の女性のところにもどり、学芸員の方に会いたい旨をつたえた。最初は、今は、適当な方がいないと取り合ってもらえなかったのだが、父が姫路の工場から岐阜の工場へ、操縦室の裏側に乗せられて来ていた。ついては、父がどんな場所に乗せられていたのか知りたいと伝える。と、
 彼女は裏手に消え、ボクよりも少し年上の痩身、白髪のいかにも、技術者という方があらわれた。
 
その方のお名前は聞きそびれたが、飛燕にとてもお詳しい方だった。
展示されている飛燕の来歴、これについては、どこかに記述があるだろうから、ここでは書かない。
エンジンの整備性の悪さについての話は興味深かった。もともと飛燕のエンジンはメルセデス製造のメッサーシュミット用DB601型液冷エンジンをライセンスされたもの。ライセンスを元にハ40というエンジンが制作された。各務原で展示されているエンジンはハ40の高性能版のハ140。終戦まで製造されたが、ともかく、整備兵泣かせのエンジンだったという。詳しくはウキペディアを参照{
親父は、終戦まで姫路工場の整備兵だったから、この展示されているハ140というエンジンを整備していた可能性は高い。飛燕の場合、機体の製造は岐阜・各務原、エンジン製造開発は姫路の川崎重工であったという。
 前述のWikipediaによると「ハ140は終戦時まで改良が続けられており、専用のターボチャージャーや2段のスーパーチャージャーの開発も進められていたとされるが、いずれも実用化には遠い段階であった。」
 親父が毛布や、酸素マスクを使用していた事から、高高度を飛ぶ飛行機、この過給器を搭載したエンジンの整備を担当していた可能性はかなり高いと思われる。
 
 洗練された機体をみて、傍らの無骨ともいえる複雑極まりないエンジンをみる。燃料噴射式の12気筒エンジン、しかも過給器付き。とてつもなく、神経質で、一度飛んだら整備しないと再び飛び立てないという代物だったそうだ。
 学芸員の方から、燃料系統のパイプ類の複雑な取り回し、クランクシャフトの強度不足の話などを聞く。油にまみれ、複雑極まりないエンジンを親父は一人で整備していたのだろうか。岐阜工場にも整備兵はいただろうから、一緒に整備したのだろうか。ともかく、液冷エンジンが少なかった時代、液冷エンジンの専門整備兵は少なかっただろうとは想像に難くない。
展示された錆びた箱は、気に留めていなかったが、学芸員の方がこんなことを言った。
「もしかして、お父様が使ったものかもしれませんね」
 その工具箱は、姫路工場に残されていたものだという。戦闘機に重そうな、大きな工具箱を載せることはよもやあるまい。試験飛行の機体に積んで、基地以外の飛行場に降りたときに、整備兵が必要としただろう工具をいれた箱だ。
 親父はこの箱といっしょに、飛燕の座席後部に転がっていたのだろうか。
親父は、おふくろにも姫路時代の話を一切しなかった。飛燕が、導いて、ボクは親父の若者時代を想像する旅をすることになった。
 老人施設から、病院にうつり、ときおり意識が混濁するようになった頃、ボクは飛燕の関連資料を探し回っていた。そして、ムック本で飛燕のエンジン(ハ40だった)の写真を見つけた。病室の親父にその本を見せると、ぼんやりしていた親父が「どこで、これを」とにわかに覚醒したようにボクを見た。
 
 ボクは、親父の時代を聞きたくて、「お父さんが整備していたのは、このエンジンだよね」と聞いてみた。親父は、何も言わず、しばらく写真をみていたが、本をふせ、言った。
「もう、いい」
それから、数日をせずに、親父は死んだ。
 几帳面で、毎日日記をつける。写真はきちんと日付、キャプションをつける親父だった。しかし、戦争時代のものは、何も残さなかった。お袋には、全部焼き捨てたと話していたという。生涯守り続けてきた飛燕の秘密を、その一片をボクはみつけてきてしまったのかもしれなかった。
 
 
 
 

 

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