「風太ビジネス」批判、行き過ぎた…旭山動物園おわび (読売新聞) - goo ニュース
風太のエピソードに関連して、ボクが考えている動物園見せ物論について、転載しました。
これは、「動物と動物園」の巻頭言に掲載したものです。
「たまちゃん」体験 ボクの動物園見せ物論 2003/01
奄美大島に通い出して15年目を迎える。もともとはリュウキュウアユの撮影が目的だったが、赤土の流れ込む川にその姿はなかった。リュウキュウアユは滅びるのではないか、そんな不安のなかで、まず自分が見たい、という思いから自然保護を始めることになった。
無自覚な行政、無関心な島民。土木工事が基幹産業と化した島の中で、リュウキュウアユとそれを取り巻く環境はいっこうに改善されなかった。手詰りの状況の中で、まず子供からと、小学生を対象に自然観察会を始めた。
夏でも川の水は冷たい。南の島の子供たちは川で泳いだ経験は少なく、水中マスクをかぶって生き物を観察することは初めてという子供ばかりだった。しかし、最初のとまどいが去ると、川は歓声にあふれた。矢継ぎ早の質問に当惑し、静かに待つことを教えた。河原に散らばった子供たちをかき集めてバスに押し込み、一日が終わった後で、一番感動していたのは私自身だったかもしれない。
なぜ、リュウキュウアユを保護するのか。そんな問いに生き物の専門家としての答えは幾通りでも考えられる。しかし、「アユが見えた」その新鮮な驚きこそが、なによりも大切な体験なのだと感じた。
同じような感覚を今年の夏、多摩川で味わった。
私の寄宿先は丸子橋のほど近くにある。冷やかし半分で「タマちゃん」を見に行ったのだ。その日は、かのアザラシが多摩川から去った日で、その姿はなかったのだが、丸子橋周辺は人であふれていた。
朝方まではいたということだが、すでに昼を過ぎ、誰もその姿を見たものはいない。そんなに呼吸が続くはずはなく、多くの人の目がその姿を見失うとは考えにくい状況だった。アザラシはもういない。しかし、その場を去る人はまばらで人は増え続けていた。驚いたのは子供たちの集中力だ。大人たちに混じってじっと水面を見つめていた。川面にたたずむ人垣を見て、彼らはもう動物園には行かないのではないか。そう思ったのだった。
「タマちゃん」体験とでもいう時間がそこにあったように思う。「タマちゃん」体験とは、いるかもしれないものを待つという自然観察者には当たり前の体験でもある。会えれば嬉しい。会えないならあきらめきれずにまた通う。私もそうやって奄美大島通いを続けてきた。
マスコミなどでは、殺伐とした世相の中、癒しの存在のタマちゃんとして総括されているようだ。しかし、映像を通じてではその体験の本質を伝えることは難しい。さて動物園・水族園である。知識として網羅される収集生物、演出の中にある擬似的な驚き。それらを超えて共有される体験という時間は、いまそこに見いだせるだろうか。
風太のエピソードに関連して、ボクが考えている動物園見せ物論について、転載しました。
これは、「動物と動物園」の巻頭言に掲載したものです。
「たまちゃん」体験 ボクの動物園見せ物論 2003/01
奄美大島に通い出して15年目を迎える。もともとはリュウキュウアユの撮影が目的だったが、赤土の流れ込む川にその姿はなかった。リュウキュウアユは滅びるのではないか、そんな不安のなかで、まず自分が見たい、という思いから自然保護を始めることになった。
無自覚な行政、無関心な島民。土木工事が基幹産業と化した島の中で、リュウキュウアユとそれを取り巻く環境はいっこうに改善されなかった。手詰りの状況の中で、まず子供からと、小学生を対象に自然観察会を始めた。
夏でも川の水は冷たい。南の島の子供たちは川で泳いだ経験は少なく、水中マスクをかぶって生き物を観察することは初めてという子供ばかりだった。しかし、最初のとまどいが去ると、川は歓声にあふれた。矢継ぎ早の質問に当惑し、静かに待つことを教えた。河原に散らばった子供たちをかき集めてバスに押し込み、一日が終わった後で、一番感動していたのは私自身だったかもしれない。
なぜ、リュウキュウアユを保護するのか。そんな問いに生き物の専門家としての答えは幾通りでも考えられる。しかし、「アユが見えた」その新鮮な驚きこそが、なによりも大切な体験なのだと感じた。
同じような感覚を今年の夏、多摩川で味わった。
私の寄宿先は丸子橋のほど近くにある。冷やかし半分で「タマちゃん」を見に行ったのだ。その日は、かのアザラシが多摩川から去った日で、その姿はなかったのだが、丸子橋周辺は人であふれていた。
朝方まではいたということだが、すでに昼を過ぎ、誰もその姿を見たものはいない。そんなに呼吸が続くはずはなく、多くの人の目がその姿を見失うとは考えにくい状況だった。アザラシはもういない。しかし、その場を去る人はまばらで人は増え続けていた。驚いたのは子供たちの集中力だ。大人たちに混じってじっと水面を見つめていた。川面にたたずむ人垣を見て、彼らはもう動物園には行かないのではないか。そう思ったのだった。
「タマちゃん」体験とでもいう時間がそこにあったように思う。「タマちゃん」体験とは、いるかもしれないものを待つという自然観察者には当たり前の体験でもある。会えれば嬉しい。会えないならあきらめきれずにまた通う。私もそうやって奄美大島通いを続けてきた。
マスコミなどでは、殺伐とした世相の中、癒しの存在のタマちゃんとして総括されているようだ。しかし、映像を通じてではその体験の本質を伝えることは難しい。さて動物園・水族園である。知識として網羅される収集生物、演出の中にある擬似的な驚き。それらを超えて共有される体験という時間は、いまそこに見いだせるだろうか。
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