太閤堤 確認 宇治川右岸で初
この辺り
偶然だが、この辺りには詳しい。
宇治川のアユの産卵場を探していて、可能性があると判断した最も上流がこの中州のあたりなのだ。
宇治川は思った以上に自然が残っていて、岸辺はコンクリート化されていない箇所が多かった。この部分には河床に水制の壊れたようなものがあったので、なんだろうかと思っていたのだが、秀吉の遺構であったのかもしれない。
8日かあ。説明会にいってみるかなあ。
ところで、宇治橋は源頼政が打たれた場所である。
その首を猪の早太がボクの近所まで運んだ。その関連はこちらに
猪の早太 調べ
☆テキスト版
<太閤堤>宇治川右岸で石積み護岸を初発見 京都
9月5日19時27分配信 毎日新聞
京都府宇治市歴史資料館は5日、同市莵道(とどう)の宇治川右岸で、豊臣秀吉が安土桃山時代に手がけた大規模治水施設「太閤堤」とみられる石積み護岸を発見したと発表した。左岸の一部で存在は確認されていたが、右岸での検出は初めて。宇治川の急流に耐える水流緩和施設を備えた治水技術や、表面に割石を張り付けて“化粧”するなど、「天下人」の権威を示す実態が明らかになった。
同資料館は、宇治川護岸遺跡と名付けた。宇治橋から約400メートル下流にある現堤防の東側で、護岸の規模は、長さ約75メートル、幅約5.5メートル、高さ約2.2メートル。傾斜30度の法(のり)面の下に約300本の木製くいを打ち、石が崩れない工夫をしていた。水流を押し返して緩和する石垣積みの「石出(いしだし)」(幅約9メートル、長さ約8.5メートル)も検出された。
太閤堤は、秀吉が伏見城築城に伴い周辺を交通要所とするため、宇治川の川筋付け替えを諸大名に命じて築いた堤防。戦国武将、前田利家の家臣が残した文献「村井重頼覚書」などによると、1594(文禄3)年に築堤が始まったが、その具体的な姿は明らかになっていなかった。
現地説明会は8日午前10時から午後3時まで随時見学。小雨決行。
【三野雅弘】
帝京大山梨文化財研究所の畑大介・保存修復研究室長の話 秀吉が文禄期に築造した可能性が高く、当時の大規模河川工事の工法を解明する極めて重要な発見だ。
最終更新:9月5日19時27分
毎日新聞
この辺り
偶然だが、この辺りには詳しい。
宇治川のアユの産卵場を探していて、可能性があると判断した最も上流がこの中州のあたりなのだ。
宇治川は思った以上に自然が残っていて、岸辺はコンクリート化されていない箇所が多かった。この部分には河床に水制の壊れたようなものがあったので、なんだろうかと思っていたのだが、秀吉の遺構であったのかもしれない。
8日かあ。説明会にいってみるかなあ。
ところで、宇治橋は源頼政が打たれた場所である。
その首を猪の早太がボクの近所まで運んだ。その関連はこちらに
猪の早太 調べ
☆テキスト版
<太閤堤>宇治川右岸で石積み護岸を初発見 京都
9月5日19時27分配信 毎日新聞
京都府宇治市歴史資料館は5日、同市莵道(とどう)の宇治川右岸で、豊臣秀吉が安土桃山時代に手がけた大規模治水施設「太閤堤」とみられる石積み護岸を発見したと発表した。左岸の一部で存在は確認されていたが、右岸での検出は初めて。宇治川の急流に耐える水流緩和施設を備えた治水技術や、表面に割石を張り付けて“化粧”するなど、「天下人」の権威を示す実態が明らかになった。
同資料館は、宇治川護岸遺跡と名付けた。宇治橋から約400メートル下流にある現堤防の東側で、護岸の規模は、長さ約75メートル、幅約5.5メートル、高さ約2.2メートル。傾斜30度の法(のり)面の下に約300本の木製くいを打ち、石が崩れない工夫をしていた。水流を押し返して緩和する石垣積みの「石出(いしだし)」(幅約9メートル、長さ約8.5メートル)も検出された。
太閤堤は、秀吉が伏見城築城に伴い周辺を交通要所とするため、宇治川の川筋付け替えを諸大名に命じて築いた堤防。戦国武将、前田利家の家臣が残した文献「村井重頼覚書」などによると、1594(文禄3)年に築堤が始まったが、その具体的な姿は明らかになっていなかった。
現地説明会は8日午前10時から午後3時まで随時見学。小雨決行。
【三野雅弘】
帝京大山梨文化財研究所の畑大介・保存修復研究室長の話 秀吉が文禄期に築造した可能性が高く、当時の大規模河川工事の工法を解明する極めて重要な発見だ。
最終更新:9月5日19時27分
毎日新聞
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