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昼間はたいてい母と
リビングのこたつで過ごす。
愛犬を看取ってからの母は
朗らかだ。
愛犬が夜中にウロウロしたり
暑そうにしたりするのを
母なりに案じていたのだろう
とようやく思った。
案じる気持ちが留守がちな
私への不満になっていたようだ。
仕事を持っているので当然
毎日不在。
それも母には「不在のカウント」だ。
叔母からの電話に
「今日はまりがおる」と答えていた。
「毎日いるって」と内心思ったが、
母にとってはいつも不在なイメージ
なんだろう。
何やかやで丸1日帰宅しないと
「誰もおらん」と開口一番いう母。
別棟に弟夫婦が居る日も同じことを
言う。
目の前に誰も居ないだけだ。
けっこうな雪が降った。
その様子を写真に撮ったが
古いカードリーダーをPCが
読み込まなくなった。
日がなこたつに足を突っ込んで
過ごす母はほぼ動かない。
「大雪だの」「麻呂は雪の下だの」
と言う。
麻呂は愛犬の名前だ。
10月に亡くなった。
麻呂の写真を印刷した小さな墓石を
アマゾンで注文して買った。
その墓石を「麻呂」と言う母は
愛犬が亡くなってもしばらく
リビングに置いていた。
麻呂はいつも無言で母の足元に
うずくまっていた。
墓石を彼のイメージで眺めて
いたのだろう。
「もう骨になったかの」と
何度も言う。
「そうだね~」と私はどっちつかず
の返事をする。
週末はセカンドハウスで過ごす
私を「暗くなるから早く行け」
と送り出してくれる。
私は夜道を心細く寂しい気持ちで
行く。
母も寂しい気持ちでこたつに
入っているだろう。
母は認知機能がかなり衰えた。
その原因は「寂しさ」にあると
言われている。
いつかは母去って行く。
そのXデーに向けて自分が
後悔したくないと思うが、
やるべき事ややりたい事を
気に掛けつつ日がなこたつで
向き合っていても埒があかない。
「どうしてずっとそこに居るんか」
と母が私に聞いたことがある。
「お母さんにつきあってる」
というと「ほっか。」と笑った。
「ほっか」とは「そうか」と
いう意味。
その状態で私に進化はないと
断言する。
音楽活動は目覚ましい活動とは
ほど遠いにしても私としては
地道にやらねばならないことがある。
毎日、気になりながらも
母と同じ空間で過ごしていたら
イラっとしてくる。
どうやら精神が荒む。
なので寂しさをふりきってでも
私は出かける。。
昨日は母は不機嫌になった。
放置されるのが寂しかったの
だろう。
セカンドハウスでは下手なピアノを
弾き歌いし、楽譜を書き、
ギターを弾き、歌詞をつけた歌を
練習する。
「あ~楽しい」とひとりごとが
漏れる。
普段忘れがちだが私にとって
「充実の時間」はやはり音楽
なのだった。
私も寂しいし母も寂しい。
二人でいると何となく日を送れる。
二人でいると嫌だったことが
何となく遠のく。
母の辛さが私の辛さになっても
良いとは思わない。
その逆もまたしかりだ。
寂しいから二人でいるのは幻想。
一人で寂しくないひとりひとりが
二人でいるべき。
個を確立したいと思う。
自分があくまで自分であるべき
だから。
母がいなくなったら一人だと
思うことがある。
私を支えてくれるパートナーが
いてくれたら・・とも思った。
彼氏が欲しいのかと自問自答
してみたら「面倒くさっ」と
真っ先に思う自分なのだった。
それがどうやら私の本心だ。
寂しくない自分になれば一挙
解決なのだ。
人はたぶん孤独に一番弱い。
認知症が社会問題になっている。
寂しい人が多いんだろう。
さて、自分の場合よね。
認知機能が下がったら自分は
寂しいんだと自覚せねば。
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