あめつちの詩

「あめつち」に響く歌声の持ち主「にいや」こと「新屋まり」が奮闘の日々を綴る。

新屋まり存在の奇跡

2020-08-21 | 私が歌手

 

タイトルに違和感あり。

「新屋まり誕生の軌跡」

が妥当でした。

 

バンド活動を始めたのは41才。

相当遅咲きだ。

「普通の人がやめる年齢だ」と

誰かに言われたものだ。

ライター業の妹が

庄原市の取材に行ったのがそもそも。

役場で勧められたライブレストラン

「すけあくろう」を妹が訪ねたら

お店のマスターのオリジナルCDの

ラフ音源が掛かっていた。

妹が気に入ってCDの予約を入れた。

出来上がったCDを妹が私にくれた。

シンプルかつエモーショナルで、

何より歌が素晴らしかった。

今にして思えば私の好きな

マイナーコードが満載だった。

すぐにファンになった。

レコーディングライブがあるのを知って

妹と出かけたが、中止になっていた。

それでマスターと話をする機会が

できたのだった。

話をしている最中に何を思ったか

「コーラスが必要だったら

言って下さい。」と口が言った。

口がそう言うまで考えもしなかった。

活動歴と言えば

高校生の文化祭で年1度、

ギターを弾きながら歌ったことが

ある程度だ。

思いがけないことだったが

更に思いがけないことに

「2年前から女性コーラスを

探していた」そうで

後日、簡単なオーディションがあった。

マスターのオリジナルに

なんちゃってコーラスを入れた。

後で聞くに、

その時私の歌を聞いたアルバイト氏は

やめとけと思ったそうだ(笑)

それでも私はハウスバンドの

バックコーラスに採用になり

週一のバンド練習に通うことになった。

photo 宮角孝雄

もしもあの時予定通りライブがあったら

私は今の活動をしていないに

違いないだろうしもしもあの時

コーラス云々の話を私がしなかったら・・、

そもそも妹がお店に取材に行かなかったら

・・

妹がCDを聞いていなかったら・・

私は歌っていなかったと思う。

練習は毎週土曜日の22時からで

終わると深夜だった。

眠気や雪や濃霧に見舞われながら

高速で片道1時間を通った。

練習も時々のライブも

楽しくて仕方なかった。

それまでの人生であんなに

楽しいと思えることに

出会っていなかった。

コーラスだけでは飽き足らず

押入れからギターを引っ張りだして

歌作りを始めた。

 photo 宮角孝雄

バンドは2年後に解散した。

8月6日だった。

人間ドックで入院した夜聞いたので

覚えている。

ショックで一睡もできなかった。

その日、広島市は原爆の日。

灯篭流しをはじめて見た日でもあった。

灯篭流しをする元安川岸では

ドームに向かって歌う「地球ハーモニー」

というコンサートが開催されていた。

「ここで歌いたい!」と

強烈に思った日でもあった。

後にこの時見た光景が「元安川」になり、

翌年の「地球ハーモニー」では

念願が叶って歌ったが、

バンド解散後どうにかして歌いたい

と思ったので

ジャズボーカルのレッスンに通ったりした。

下手なギターを抱えて歌うことが

決定的になったのは

2001年の米国同時多発テロだ。

アメリカがテロ国家と決めつけた

アフガニスタンは

仏教が伝わった最も西の地域。

ソ連から侵攻されたことや

ユートピアと言われた国が大干ばつで

荒れていたことなどなど、

ユニークな国だった。

「ラディーナ」という歌になった。

後にアルバムタイトル曲にしたが、

あの熱量を超えるアルバムは

これから先もできないだろう。

以来ひっかかるコトバや

不条理をテーマに歌作りをした。

もしあの時バンドが解散していなければ

あるいは地球ハーモニー出演も

その後の活動原点である

「ヒロシマ」もなかっただろう。

 

そうそう、

お見合い24回も結局成らず。

東京で結婚していれば

新屋まりは存在しない。

「皆さん良かったですね、

私が結婚していなくて」と

ライブ会場で客席に問えば

皆さん微笑みながら

うなずいて下さるのです。

 

 

 


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