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NHKスペシャル「沖縄平和の代償」 偏向報道の記録 9

2010年12月10日 | 過去記事倉庫

東京都心のベッドタウン、府中市。



閑静な住宅街の一角にある巨大なアンテナは、
かつてアメリカ軍が使用していた施設です。




この一帯、実は30年あまり前まで、アメリカ軍の基地でした。



1960年代後半から70年代にかけて、
首都圏にあったアメリカ軍の基地、あわせて71カ所が、日本に返還されました。




日本政府が強く働きかけた結果でした。



佐藤元首相
「外国の兵隊が首府のそばにたくさんいるという、
そういうような状態は好ましい状態ではない」




同じころ、佐藤総理大臣は
沖縄の本土復帰にも力を注いでいく
決意を示していました。


佐藤元首相
「私は、沖縄の祖国復帰が実現しない限り、
我が国にとって戦後が終わっていないことを
よく承知しております」



総理大臣として初めて、
沖縄戦の激戦地の跡を視察。



沖縄の人々は、復帰によって本土と同じように基地が返還されるのではないかという
大きな期待を寄せました。





ところが、日米両政府は沖縄返還で合意したものの、主要なアメリカ軍基地は残すと
密かに決めていたのです。




NHKスペシャル「沖縄平和の代償」 偏向報道の記録 8

2010年12月10日 | 過去記事倉庫
これは、辺野古の住民がラジオを通じて、受け入れを表明した時の原稿です。


いち早く基地を容認することを非難しないでほしいと、沖縄の人々に訴えています。


「私たちを売国奴などと脅かしてはいけません。
自分の力や自分の立場もわきまえず戦ったら、
いくら戦っても危ういものだ。」




辺野古の受け入れをきっかけに、
アメリカ軍は基地の建設を本格化。本土の基地が減らされる一方で、沖縄の基地の面積は一気に1.8倍に拡大しました。


そして1957年10月、本土に駐留していた海兵隊部隊は沖縄に移転。
実戦さながらに上陸訓練を行いながらのものでした。




海兵隊基地の建設を受け入れざるを得なかった、辺野古の人々。



基地の海兵隊員の数は、
多い時で住民のおよそ2倍、4000人にのぼります。

(海兵隊員と辺野古住民の交流風景)




(海兵隊員との祭に参加する、住民たち。
海兵隊員は楽しそうな表情。
住民のほうは、不安げな表情をとらえている。)







海兵隊が辺野古に駐留してからおよそ50年。
基地と住民の隣り合わせの生活が続いてきたのです。
(座り込みテント村の横を通る、カヌーを運ぶ海兵隊員)





ご覧いただきましたように、半世紀以上も前、
人々の苦渋の選択で土地が提供され、
建設されたキャンプシュワブ。
こちらから向こうが、海兵隊基地の敷地です。


なぜ沖縄に基地が集中したのか。
本土から沖縄への海兵隊移転という、その原点を見ていくと、
アメリカの施政権下のもとで、基地の建設や部隊の移転がしやすい。
また、日本政府が黙認したという
政治的理由が大きかったことがわかります。

やむなく基地を受け入れた沖縄の人々にとって、
その後、状況が大きく変わると、期待する時期が訪れます。
1972年の本土復帰です。

しかし、アメリカにかわって基地問題と真っ向から向き合うことになった日本政府は、
沖縄の人々の「せめて本土並に基地を減らす」という期待を受け止めることなく、
逆に基地の集中の固定化へと、政府自らが関与していくことになったのです。









NHKスペシャル「沖縄平和の代償」 偏向報道の記録 7

2010年12月10日 | 過去記事倉庫

この頃、外務省で開かれた対策会議の内容をまとめた内部文書。
当時の担当局長の発言が記されていました。


「海兵隊の意中はやむを得ないのだろう。
新規接収の反対を正面に出すことはできまい。
沖縄の問題は、姿勢権を持つアメリカの内政問題で、深入りできない。」


それが外務省の判断でした。
日本政府は本土からの海兵隊移転を、いわば黙認していたのです。





海兵隊の移転について、日本政府からの支援が得られなかった沖縄。
辺野古の住民たちは、アメリカ軍の強硬姿勢を前に、追い詰められていました。


アメリカ軍は、各地で
基地の用地の強制収用を始めていました。



激しく抵抗する住民を、
武装した兵士が力ずくで排除。
ブルドーザーを使って、住宅や田畑を次々と更地に変えていきました。

嘉陽宗信さん


「米軍が力で抑える。要するに昔、日本軍が住民を抑え、国民を抑えたもんと同様に、米軍も同じことをやったんですよ。
だからもう日本国時代からその体験はあるから、ピンとくるわけですよね、すぐ。
だから、そういった意味で絶対反対ではあるが、
実力で抑えつけてくるから、結局動けなくなるさ。」




嘉陽さんたちは、
ついに海兵隊基地の建設を受け入れます。
これを機に、島ぐるみ闘争は内部分裂していきました






NHKスペシャル「沖縄平和の代償」 偏向報道の記録 6

2010年12月10日 | 過去記事倉庫
当時、地区の代表の一人として、
基地の受け入れに反対した、嘉陽宗信さん、86歳。


住民の間には、アメリカ軍に対する恐怖が広がっていたと言います。

基地を建設する計画が伝えられた直後、
アメリカ兵が6歳の女の子を誘拐。
暴行した上に殺害するという事件が起きました。




嘉陽宗信さん
「まだ戦争のにおいが残っている時代だから、
暴行とか、そういったものは、話がよく聞こえよったんですよ。女子暴行。

一番それが嫌だったわけですよね。
自分たちの生活は、どうなっていくかという問題。
それが一番大きかったですね、自分たちとしては」


沖縄各地で、「島ぐるみ闘争」と呼ばれる、大規模な基地反対運動が起こります。


「戦い終わって山河ありと言う。
だが、戦い終わって、今なお山河変わりつつある。
それが沖縄である。
無期限に土地は取られ」




しかし、基地の建設を進めるアメリカ軍の姿勢は、一向に変わりませんでした。



アラン・ミレット博士
「沖縄でも時々衝突が起きることはありましたが、
あの島はアメリカ軍が統治していました。
軍部こそが中央政府だったのです」



沖縄の人たちが救いを求めたのは、日本政府でした。



ニュース
「沖縄代表団の一行は、首相官邸に鳩山総理大臣を訪ね……」
沖縄代表団は苦しい実情を伝えるとともに、日本本土からの協力を訴えました。



「沖縄の住民の人々の力だけではできない。
どこまでも日本国民であるところの8千万の同胞と
共に立ち上がってもらわなければならない」

沖縄の主権は日本にあると、繰り返し主張していた日本政府。外務大臣がアメリカ側と会談します。


ところが、海兵隊基地の問題が採り上げられることはほとんどありませんでした。