校歌由来記
西高校の正門を入った所に築山がある ここは創立の頃 海南島の愛称で呼ばれていた、この築山に一つの碑が建っている、碑文は 溝渕 増己知事の筆になる。 校地が決まると、校舎の整備が急ピッチで進められた。然り新しい校舎が建ったのではなく、郡是(グンゼ)製糸の男女工員の寄宿舎が改造されて、教室として使用されることになった。職員室は浴場を改造して作られ、校庭には県下一といわれた50メートルの大煙突が残されていた。このような状態で33年6月27日28日の2日間にわたって移動が行われ、校地の校名も文字通り東から西に移り7月10日、校名が正式に「高知西高校」と決定されたのである。 |
1. あけぼのの 光あらた 道きはむ 灯たれと 照りはゆる 学びの窓に 書ときて 真理をたづね わが友よ われら学ばん 2. 清らなる 鏡の水に 湧きいづる 生命をくみて 伸びゆかん たくましき腕 世に立たん その日のために わが友よ われら鍛えん 3. 緑なす 山脈はるか 白雲の ゆくへにのせて 大いなる われらが希望 幸福と 平和の世にと わが友よ われら睦まん |
校歌の多くは、詩人や作曲家によって作られている場合が多い。作詞が学校関係者ある場合でも、作曲は専門家に依頼するのが多いのではあるまいか。西高校がなぜに作詞作曲とも職員生徒の手によったかは、西高校の生い立ちとも深い関係があるように思う。西高校は施設、設備の面で極めて恵まれない状態の中から発足した。当時の職員生徒の一致した気持ちとして、自分たちのことは自分たちでやらなければという気持ちがみなぎっていた。いつとはなしに「パイオニア・スピリット」(開拓者精神)が合言葉となっていた。こうした気風の中で、校歌が職員生徒自らの手によって作り出されたことはまた、当時のことであった。 小松 生幹 校長は、1月、朝礼に於いて全校生徒を前にして、西高校の校歌は、第1節で光を、第2節で水を、第3節で土をうたっている。光、水、土は生きとして生けるものをはぐくむもとになるものと言われ、3代校長の 井上 源兵衛 校長は、知情意の3つをうたっていると話された。この効果は簡明に、自然の恵みと、教育の指向すべき方向を語りかけているといえよう。 ここで作詞者の 宮田 淳夫 先生について少し触れておきたい。 昭和42年11月12日 日曜日 午後7時40分、奇しくも思いで多い東高校跡の県立中央病院で永い眠りにつかれたのである。 |
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます