徒然なるままに〜孤独な初老のダメ男日記

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映画「ショーシャンクの空に」を観て

2020-08-23 14:12:47 | 映画

あまり映画を知らない私は、映画好きな友人にお薦めの作品を尋ねてみた。すると、「ショーシャンクの空に」と答える人が多かった。大体のストーリーを聞き、映画を観た。この映画では、「希望」がテーマになっているようだ。最初は、「果てしない大空に舞う鳥の如く、雲の高さを越える希望を見つけて羽ばたこう!」というような、ただ激励の意を伝えるだけの映画かと思っていたが、そうではないようだ。

若い銀行の副頭取だったアンディが、殺人の冤罪でショーシャンク刑務所に投獄されることになる。刑務所内では酷いいじめにも遭う。刑務所の所長も主任も不正行為等を平気でできる、ろくでもない人間である。このようなショーシャンク刑務所内での物語である。

アンディの行動は、他の囚人達と違っていた。主任の相続税の節税の為の書類作成を銀行員時代の知識を使い、買って出るのである。そしてその報酬に、囚人仲間へのビールの差し入れを要求する。また、図書館係の仕事を任されると、州議会へ毎週手紙を出し続ける。そして、6年後に、州議会がこの刑務所の図書館に予算を割り当てることになる。州議会から送られてきた本の中に「フィガロの結婚」というモーツァルトのオペラのレコードがあり、刑務所内にその曲を流すのである。これが、囚人達の間では、束の間のやすらぎの時間となる。

アンディは語る。「心の豊かさを失ってはいけない。人間の心は石でできているのではない。誰にも奪うことのできない物が心の中にある。それは「希望」である。」と。しかし、それに対して、アンディと親しい囚人のモーガン・フリーマン扮するレッドは「何も期待するな。希望はいずれ絶望に変わるだけだ。希望など持つな。」と言うのである。このことは、刑務所の中だけの話ではない。自分にとっても、希望が成就しなかったことがほとんどで、この年齢になると、努力のエネルギーも無くなり、いつからか希望すら持たないようになっていった。「希望」と「現実」のギャップを知るからである。友人関係においてもそうだ。話せば、自分の辛い気持ちを理解してくれるはずだと、独りよがりな期待をするが、期待通りにならないことが多々あり、友人とも疎遠になっていく。この繰り返しの中で、いつしかレッドと同じような考えになっていった。しかし、アンディは、絶望感に支配されないように懸命に努力するのである。これがアンディの言う「希望」である。つまり、社会的・経済的成功、目的を成し遂げた達成感、名誉を手に入れることなど、ドーパミンが分泌されるような幸福を思い描く「希望」ではないのである。

話は飛ぶが、もう一つ、囚人仲間で、50年刑務所暮らしの老人ブルックスが、仮釈放となり、自由を獲得するのである。しかし、親しい人が誰もいないシャバに放り出され、「自由」は激しい「孤独感」へと変容し、「希望」どころか、ついには自殺するのである。「自由」が「希望」へと繋がらなかったのである。

アンディは、入所から19年後に脱獄に成功する。そして、その後レッドも釈放されることになる。ただ「希望」の持てないレッドであるが、ブルックスとは違っていた。その理由は、アンディの存在であった。「希望」とは、心が通じ、信頼し合える仲間との繋がりがあって、初めて抱ける気持ちなのだろう。

一つの目的が達成できたかできないかだけに拘る「希望」は、瞬く間に虚しく消え去るのであろう。人生を心豊かに過ごす為には、「希望」を持つことが大切であるが、その「希望」には、心から信頼できる人との繋がりと、今よりも少しでも良い未来を、永遠に期待することが相まって、心に抱き続けることができるものなのだと感じた。生きる勇気を与えてくれる映画であり、ラストシーンが感動的だった。

 


映画「きっと、うまくいく」を観て

2020-07-19 14:28:49 | 映画

この作品は、インドの映画(2009年)であり、インドの社会構造になっている学歴偏重の競争社会への風刺を描いたコメディーである。

人生、これから!という中学生、高校生、大学生などの若い世代の人達向けの映画であり、私のような年寄りは、若い頃を思い出しながら観ると面白いだろう。映画自体はシンプルな作りなので、物足りないという方もおられると思うが・・・。

この映画で、インドでは相当の格差社会が存在し、一流大学へ進学後、エンジニアになり、一流企業へ就職することが、若い人たちへのプレッシャーとも言える目標になっているようだと感じた。この映画でも、家族の期待を一身に背負い、一流大学へ進学するが、挫折し自殺までする人が、病死よりも多いと伝えている。

あらすじは、このようなインド社会の状況の中、一流大学に進学した男性3人組の話で、この中のランチョーという人物は、学内トップの成績であるが、成績がトップであること、一流企業に就職することを目標にしているのではなかった。ランチョーは学問自体に情熱を持っていたのであった。情熱があれば、いずれ苦境に立たされても乗り越えられるし、成功への可能性も高まるというのである。ランチョーの言う「成功」というのは、高い年収を稼ぐことではなく、人生を心豊かに過ごすことを言っている。

本当はエンジニアではなく、カメラマン志望の友人には、カメラマンになることを勧めるのである。そうしなければ、一生を後悔することになるというアドバイスをするのだ。そして、ランチョーの真逆の考えで、周囲の学生をどんな手段を講じてでも蹴落とし、トップの成績を取り、一流企業に就職したいというチャトゥルという学生がいる。(成績はランチョーの次の2番)この学生がランチョーのいたずらで、全学生の前で恥をかかされるのである。このシーンも笑えるシーンである。このシーンの後にチャトゥルは怒り、10年後にどっちが成功しているか勝負しようと、ランチョーとその友人二人に言う。

そして、卒業後、忽然と消息を絶ち音信不通になってしまったランチョーを、10年後に、チャトゥルとランチョーの友人二人が捜しに行くというのが、この映画のメインになっている。「10年後のランチョーは、どうなっているのだろうか・・・?」、10年後のチャトゥルは、プール付きの豪邸に住んで、いわゆる「勝ち組」になっている。ランチョーが卒業して10年経ってどのようになっているのか?興味のある方は是非映画を見て頂きたい。

私の高校、大学時代は「バブル時代」であった。バブル経済は、株式・不動産を中心に実体経済を伴わない状態で、資産価格が一時的に高騰したものである。資産価格の高騰自体は悪いことではないが、日本経済の状態を正しく反映したものではなかった。ドル安によって、アメリカの貿易赤字を改善させる狙いのもとに、1985年「プラザ合意」(日米英独仏の5カ国の会議)がなされた。プラザ合意後、日本は円高不況になる。その為、日銀は低金利政策をとり、その結果、金が市場に流出し、資金の運用が決まらない状態になってしまう。その結果、その資金が株式市場に流れ、資産価格の上昇が始まったのである。それに伴っての好景気になっていくのである。

この時代のせいにするつもりはないが、私は高校時代の進路指導で、先生からは「君は何に情熱を費やし生きていくのか?」等と聞かれたことはなかった。有名な大学に進学するように勧められた。有名な大学に進学すれば、有名な企業に就職できる。そうすれば、その後の生活は安泰だとアドバイスしてくれた。私は先生からのアドバイスを正しいものと思い込んでいた。何の疑問も持たなかった。当時の会社は、年功序列・終身雇用といった「家族的経営」が尊ばれていた時代で、今のようなリストラ・早期退職など考えられない時代であったからだ。

私は、大学に合格する為、丸暗記の勉強に一年も費やした。四年生になると、色んな企業から電話が鳴りっぱなしだった。就職売り手市場であった。私は全て断り、大学院に進んで財政学を専攻した。財政学の勉強に情熱があったのではない。修士論文の要約を国税庁に提出すれば、もれなく税理士試験のうちの税法3科目が試験免除になるからである。そして、大学院修了時にバブルが崩壊したのである。

その後の就職活動は、全て失敗に終わり、バイトでも良いから雇って欲しいと懇願したがそれも叶わなかった。そうしているうちに、大学の就職課の紹介で、自宅から1時間程にある会計事務所に勤務することになった。しかし、全く興味も無く、実務経験も無く、さらに重要な情熱も無く、すぐに辞めることに決めた。友人たちは、そこまで努力したのに勿体ないと言うが、情熱のないものの挫折と諦めは早いものである。勿体ないよりも、愚かだったと思うしかない。

そんな自分の過去を振り返りながら、この映画を観ると、ランチョーのように物事をしっかり考えられる能力があればよかった、と後悔する。勿論、私はこの映画に出てくるような優秀な人物ではないが、その時の時代背景や風潮に付和雷同的に流されず、しっかりとした自分の考えを持つことの大切さを感じた。

高校時代に、絵を描くのが好きだから美術大学に行きたいと言う友人がいたが、芸術関係の大学に行くなんて、人生のトーナメントに不戦敗するようなものだと思っていたが、彼は今頃、若い頃からの堆積された絵の情熱をもとに、豊かな人生を歩んでいるのだと思う。実力とは、一朝一夕に身につくものではない。若い時代は、自由な時間が多いが、その時間をどう使うかが、その後の人生を大きく左右するものだと、今は痛感している。


映画「最高の人生の見つけ方」を観て

2020-06-30 16:42:13 | 映画

人の一生の価値は何をもって決まるのか?余命半年と告げられた真逆の人生を送った二人が、病室で出会い「棺おけリスト」なるものを作り、死ぬまでにやりたい事をリストに書き、そのリストを携え旅に出るのである。

私が今、余命半年と告げられたら何をするだろうか?只々、狼狽するだけで、健康を取り戻そうと足掻き、底なし沼に沈むような感覚に陥るだけだ。この二人の登場人物のように、余命半年の自分の身体をありのままに受け入れて行動することは出来ないだろう。

なぜ、余命半年と告げられ狼狽するのか?その半年の間に成し遂げたいような目標が見つからないからだ。今まで、穏やかな気持ちでいられる時というのは、何かの達成感があった時ではなかった。特に具体的な目標が無くても、自分にはまだ幾重にも重なり広がる新緑の景色に通じる道が、幾つもあるように感じている時であった。つまり、過去にこうべを巡らすならば、努力が報われたことも、目標をクリアした達成感なども味わったことがなく、ただ退屈で押し潰される人生の「暇つぶし」をしている最中に喜びを感じていた。その「暇つぶし」は、具体性のない将来の幸せを想像することが基礎となっている。なので、その最中には「死」など考えたことはないが、塹壕の中に身を潜め、さらに銃弾の飛び交う敵地近くの塹壕へと、身を屈めて進み続ける兵士のように、着実に「死」に向かっている。「死」だけではなく、歳月とともに夢や希望も同じように消失していく。夏目漱石の最後の随筆「硝子戸の中」に次のような一文がある。「自分で夢の間に製造した爆裂弾を、思い思いに抱きながら、一人残らず、死という遠いところへ談笑しつつ歩いていくのではなかろうか。ただどんなものを抱いているのか、他も知らず自分も知らないので、しあわせなのだろう。」

今世界的に注目されているプロボクサーの井上尚弥選手は(バンタム級2団体統一チャンピオン)現在27歳で現役真っ只中にいるが、35歳で引退することに決めているそうだ。それは、現在のパフォーマンスで試合ができるのが35歳までだろうと判断し、今一日一日を大切に送っているという。これは、新型コロナウイルスで試合が延期になってしまったときのインタビュー記事に書いてあった。一流の人は期限を決めて、そこから逆算して生活しているようだ。

さて、映画の話に戻るが、この主人公の二人が「棺おけリスト」に挙げたやりたい事を達成すると、チェックしていくのである。スカイダイビング、スーパーカーでのレース、絶景を堪能するなど。旅の途中で一時的な仲違いをして帰宅することになる。まだ、映画の途中であるが、ここまで観た段階では、この二人がポジティブとも思えず、逆に死を目の前にして、人生の最後にやりたいことが、スカイダイビングやレースであるならば、それは虚しい人生ではないかと感じた。

ただ、映画はここで終わらない。世界旅行から帰宅後に、ジャック・ニコルソン扮する大金持ちの豪腕実業家と、モーガン・フリーマン扮する勤勉実直な自動車修理工が「棺おけリスト」の最後に書いてある人生で一番大切に思えることを経験して、この世を去るのである。対照的な立場にある二人であるが、亡くなる前の最後に修理工が大富豪に送った手紙の一部に「我々の人生は大河に流れる小川のようなものだ。その大河の流れの先にあるのが天国だ。人生に喜びを見いだしてくれ。」という牧師の言葉を引用した一文があった。

人の幸福とは、名誉や経済的豊かさではなく、人との関わり合いの中で育まれるものだという事を伝えたかったのだろう。対照的な立場の二人が、お互いに、普遍的な真の幸福に気付くという映画であったと思う。

めくるめく色鮮やかな季節というものは、いずれ映画やドラマの中だけの出来事であり、友人達が、川の流れのように変化のある人生を歩んでいるのに、その流れの底で深く埋れた石のように取り残されたと思っている自分には、死ぬまでに、この映画の主人公達のような経験が出来れば本望であると感じた。


映画「フィッシャーキング」を観て

2020-06-21 13:52:27 | 映画

銃の乱射事件の場面や、その事件で妻を亡くしたバリーが、PTSDになり精神障害者になって幻覚・幻聴といった症状が出る場面もあり、ショッキングでシュールレアリスティックな作品であるが、「本当のやさしさ」と「幸せとは何か」を伝えてくれる映画だと感じた。私も月並みのやさしさは持ち合わせていると思っているが、それはエゴイスティックにうっすらコーティングされたぐらいのやさしさで、挙げ句の果てには見返りまで期待するものである。

過激トークで人気絶頂のラジオ番組の司会者ジャックが、ある日、彼の不用意な発言がきっかけで、銃の乱射事件が起き、地位も名誉も失ってしまう。その後、ジャックはホームレスのバリーと出会うが、その事件で妻を失ったことを知った。そして、ジャックは彼のために力になりたいと考えるようになる。              

この映画を観ていると、ジャックという人物に注目してしまう。

 彼は自己顕示欲、自尊心、優越意識が高い。だが、それだけでなく、それなりのやさしさも備え持っている。彼が直接事件を起こしたわけでもないのだが、自責の念を感じている。その気持ちから、バリーの力になりたいと思い色々行動する。自分には関係ないと言い張ることもできるのだが・・・。          

 この事件後、職を失い、失意のどん底にいるときの独り言で「この世の人間には2種類あり、ウォルトディズニーのように偉人となる運命を背負った者と、それ以外は出来損ないの役立たず者だ。」という言葉を語るシーンがある。彼の幸福感というのは、定性的ではあるが、「社会的成功」「経済的成功」といったことで充足されるものだったのだろう。 

 映画のラスト近くで、大事なシーンがある。              

バリーが意識不明で入院している病院に、ジャックが聖杯を持って面会に行く。(この聖杯は、バリーが欲しがっていた億万長者の屋敷にあるもので、犯罪を犯すことに躊躇いがあるが、盗み、届けるのである。この聖杯は人の傷を癒すが、権力や栄光に執心する人間には無意味なものである。)                                                                    

ジャックがバリーに背を向けて同じベッドに横になっていると、バリーの意識が回復し、バリーは上半身の体を起こし、眠っていると思ったジャックに向かって、やさしい言葉を投げ掛ける。                            

これによって、ジャックは人生で大事なものは何かを知る。そして、このシーンを観た後、もう一度この映画を観直すと、バリーのジャックに対するやさしい気遣いが、よくわかった。間接的にではあるが、ジャックのラジオ番組中の発言が事件の引き金になってしまった。自分のせいで事件の被害者に人生の不幸をもたらしてしまったという自責の念で辛い気持ちでいるジャックの気持ちを慮ってのことであろう。心温まる映画であった。

ただ、もともと銃乱射事件が元で妻を亡くしたという事実は残り、完全なハッピーエンドとは言えない。なので、最後のシーンで花火が打ち上がる映像など、コメディータッチで描かれるのには、些か違和感を感じた。                

1991年 監督:テリーギリアム 出演:ロビン・ウィリアムス、ジェフ・ブリッジス  


映画「シーモアさんと、大人のための人生入門」を観て

2020-05-09 13:43:32 | 映画

「勝ち組・負け組」という言葉をよく耳にするが、両者の判断基準は、「経済的裕福さか」あるいは「名声を勝ち取ったか」なのか?

私は「心が満たされているかどうか」だとこの映画を観て思った。なので、主観的なもので、他人にはわからないものであるとも思う。「人からどう思われているかということと、自分が楽しんで生きていくこととは何の関係もない。」これは、心理学者のアルフレッド・アドラーの言葉である。

以前、カウンセラーの方に「リフレーミング」の効果について話を聞いたことがある。困難な状況に陥ったときに、その状況を別の角度から考え、良い出来事に繋がるように思考の枠組みを再構築するというものである。

「人間って、なかなか死なないもんだなぁ・・・」という言葉は、繁栄丸船長・武智三繁氏が、たった一人太平洋で遭難し、37日間漂流後救助された時の言葉だと記憶している。漂流者が飢えや渇きで倒れるのは、生理的欠乏そのものよりも、むしろ、欠乏に対する恐怖からのせいであり、負けたと思った時から敗北が始まる。というのを聞いたことがある。武智氏も、リフレーミングを行なっていたのだろう。「究極の孤独感」の先に待ち受けているのは、「絶望感」であると思うが、武智氏は、そういう考えではなかったようだ。(詳しくは「あきらめたから 生きられた(小学館)参照)

話は長くなったが、この映画は、俳優として、一人の人間として行き詰まりを感じていた俳優イーサン・ホークが、ピアニストのシーモア・バーンスタイン(当時84歳)と夕食会で出会い、生き方・考え方を見直し救われるきっかけとなったことで、シーモアのドキュメンタリー映画を撮ることになったのである。

シーモア・バーンスタインは、アメリカで若い頃からピアニストとして名声を築くが、50歳で演奏活動をやめてしまうのである。それは、自分の音楽活動を音楽を深く追求することに捧げたいという希望からである。経済的裕福さ、名声を勝ち取ることを人生の目標にすることへの虚しさを感じさせてくれる映画であった。50代半ばの空々寂々たる人生を歩み、孤独感で打ちひしがれている自分に、優しく背中を押してくれる映画でもあった。

最後に、この映画の公式ホームページの冒頭部分をそのまま書かせて頂く。

「悲しみの音色はいずれ、美しいハーモニーになる。自分の心と向き合うこと、シンプルに生きること、成功したい気持ちを手放すこと。積み重ねることで、人生は充実する。」