徒然なるままに〜孤独な初老のダメ男日記

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映画「最高の人生の見つけ方」を観て

2020-06-30 16:42:13 | 映画

人の一生の価値は何をもって決まるのか?余命半年と告げられた真逆の人生を送った二人が、病室で出会い「棺おけリスト」なるものを作り、死ぬまでにやりたい事をリストに書き、そのリストを携え旅に出るのである。

私が今、余命半年と告げられたら何をするだろうか?只々、狼狽するだけで、健康を取り戻そうと足掻き、底なし沼に沈むような感覚に陥るだけだ。この二人の登場人物のように、余命半年の自分の身体をありのままに受け入れて行動することは出来ないだろう。

なぜ、余命半年と告げられ狼狽するのか?その半年の間に成し遂げたいような目標が見つからないからだ。今まで、穏やかな気持ちでいられる時というのは、何かの達成感があった時ではなかった。特に具体的な目標が無くても、自分にはまだ幾重にも重なり広がる新緑の景色に通じる道が、幾つもあるように感じている時であった。つまり、過去にこうべを巡らすならば、努力が報われたことも、目標をクリアした達成感なども味わったことがなく、ただ退屈で押し潰される人生の「暇つぶし」をしている最中に喜びを感じていた。その「暇つぶし」は、具体性のない将来の幸せを想像することが基礎となっている。なので、その最中には「死」など考えたことはないが、塹壕の中に身を潜め、さらに銃弾の飛び交う敵地近くの塹壕へと、身を屈めて進み続ける兵士のように、着実に「死」に向かっている。「死」だけではなく、歳月とともに夢や希望も同じように消失していく。夏目漱石の最後の随筆「硝子戸の中」に次のような一文がある。「自分で夢の間に製造した爆裂弾を、思い思いに抱きながら、一人残らず、死という遠いところへ談笑しつつ歩いていくのではなかろうか。ただどんなものを抱いているのか、他も知らず自分も知らないので、しあわせなのだろう。」

今世界的に注目されているプロボクサーの井上尚弥選手は(バンタム級2団体統一チャンピオン)現在27歳で現役真っ只中にいるが、35歳で引退することに決めているそうだ。それは、現在のパフォーマンスで試合ができるのが35歳までだろうと判断し、今一日一日を大切に送っているという。これは、新型コロナウイルスで試合が延期になってしまったときのインタビュー記事に書いてあった。一流の人は期限を決めて、そこから逆算して生活しているようだ。

さて、映画の話に戻るが、この主人公の二人が「棺おけリスト」に挙げたやりたい事を達成すると、チェックしていくのである。スカイダイビング、スーパーカーでのレース、絶景を堪能するなど。旅の途中で一時的な仲違いをして帰宅することになる。まだ、映画の途中であるが、ここまで観た段階では、この二人がポジティブとも思えず、逆に死を目の前にして、人生の最後にやりたいことが、スカイダイビングやレースであるならば、それは虚しい人生ではないかと感じた。

ただ、映画はここで終わらない。世界旅行から帰宅後に、ジャック・ニコルソン扮する大金持ちの豪腕実業家と、モーガン・フリーマン扮する勤勉実直な自動車修理工が「棺おけリスト」の最後に書いてある人生で一番大切に思えることを経験して、この世を去るのである。対照的な立場にある二人であるが、亡くなる前の最後に修理工が大富豪に送った手紙の一部に「我々の人生は大河に流れる小川のようなものだ。その大河の流れの先にあるのが天国だ。人生に喜びを見いだしてくれ。」という牧師の言葉を引用した一文があった。

人の幸福とは、名誉や経済的豊かさではなく、人との関わり合いの中で育まれるものだという事を伝えたかったのだろう。対照的な立場の二人が、お互いに、普遍的な真の幸福に気付くという映画であったと思う。

めくるめく色鮮やかな季節というものは、いずれ映画やドラマの中だけの出来事であり、友人達が、川の流れのように変化のある人生を歩んでいるのに、その流れの底で深く埋れた石のように取り残されたと思っている自分には、死ぬまでに、この映画の主人公達のような経験が出来れば本望であると感じた。


映画「フィッシャーキング」を観て

2020-06-21 13:52:27 | 映画

銃の乱射事件の場面や、その事件で妻を亡くしたバリーが、PTSDになり精神障害者になって幻覚・幻聴といった症状が出る場面もあり、ショッキングでシュールレアリスティックな作品であるが、「本当のやさしさ」と「幸せとは何か」を伝えてくれる映画だと感じた。私も月並みのやさしさは持ち合わせていると思っているが、それはエゴイスティックにうっすらコーティングされたぐらいのやさしさで、挙げ句の果てには見返りまで期待するものである。

過激トークで人気絶頂のラジオ番組の司会者ジャックが、ある日、彼の不用意な発言がきっかけで、銃の乱射事件が起き、地位も名誉も失ってしまう。その後、ジャックはホームレスのバリーと出会うが、その事件で妻を失ったことを知った。そして、ジャックは彼のために力になりたいと考えるようになる。              

この映画を観ていると、ジャックという人物に注目してしまう。

 彼は自己顕示欲、自尊心、優越意識が高い。だが、それだけでなく、それなりのやさしさも備え持っている。彼が直接事件を起こしたわけでもないのだが、自責の念を感じている。その気持ちから、バリーの力になりたいと思い色々行動する。自分には関係ないと言い張ることもできるのだが・・・。          

 この事件後、職を失い、失意のどん底にいるときの独り言で「この世の人間には2種類あり、ウォルトディズニーのように偉人となる運命を背負った者と、それ以外は出来損ないの役立たず者だ。」という言葉を語るシーンがある。彼の幸福感というのは、定性的ではあるが、「社会的成功」「経済的成功」といったことで充足されるものだったのだろう。 

 映画のラスト近くで、大事なシーンがある。              

バリーが意識不明で入院している病院に、ジャックが聖杯を持って面会に行く。(この聖杯は、バリーが欲しがっていた億万長者の屋敷にあるもので、犯罪を犯すことに躊躇いがあるが、盗み、届けるのである。この聖杯は人の傷を癒すが、権力や栄光に執心する人間には無意味なものである。)                                                                    

ジャックがバリーに背を向けて同じベッドに横になっていると、バリーの意識が回復し、バリーは上半身の体を起こし、眠っていると思ったジャックに向かって、やさしい言葉を投げ掛ける。                            

これによって、ジャックは人生で大事なものは何かを知る。そして、このシーンを観た後、もう一度この映画を観直すと、バリーのジャックに対するやさしい気遣いが、よくわかった。間接的にではあるが、ジャックのラジオ番組中の発言が事件の引き金になってしまった。自分のせいで事件の被害者に人生の不幸をもたらしてしまったという自責の念で辛い気持ちでいるジャックの気持ちを慮ってのことであろう。心温まる映画であった。

ただ、もともと銃乱射事件が元で妻を亡くしたという事実は残り、完全なハッピーエンドとは言えない。なので、最後のシーンで花火が打ち上がる映像など、コメディータッチで描かれるのには、些か違和感を感じた。                

1991年 監督:テリーギリアム 出演:ロビン・ウィリアムス、ジェフ・ブリッジス