時事ドットコム:両陛下、日米の慰霊碑に供花=激戦の地ペリリュー島-アンガウル島にも黙礼・パラオ
【ペリリュー島(パラオ)時事】戦後70年の戦没者慰霊のためパラオを訪問中の天皇、皇后両陛下は9日午前(日本時間同)、太平洋戦争の激戦地となったペリリュー島を訪れ、日米双方の慰霊碑に供花された。
【特集】日米激戦の島 ペリリュー
約10年前にも検討したが、果たせなかったパラオ訪問。最も激烈だったペリリュー島の戦いでは、日米合わせて約1万2000人が亡くなった。長年の両陛下の思いがようやく実現した。
海上保安庁のヘリで同島の飛行場に到着した両陛下は午前10時40分ごろ、日本政府が建てた「西太平洋戦没者の碑」がある同島最南端の平和記念公園に到着。厚生労働省の村木厚子事務次官の案内で供花台の前に進むと、日本から持ってきた白菊の花束を供えて深く一礼した。
「西太平洋戦没者の碑」を訪れ供花される天皇、皇后両陛下=9日午前、パラオ・ペリリュー島(代表撮影)
続いて同じく激戦地となったアンガウル島について村木次官から説明を受け、海の向こうに見える同島に向かって並んで黙礼した。
「西太平洋戦没者の碑」に供花し、アンガウル島に向かって黙礼される天皇、皇后両陛下=9日午前、パラオ・ペリリュー島(代表撮影)
帰り際にはペリリュー州知事らに一人一人あいさつ。戦没者の遺族や生還兵らに言葉を掛けた。(2015/04/09-11:43)
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天皇、皇后両陛下が8日訪問されたパラオの中心地コロールは、日本統治下だった太平洋の島々を管轄した南洋庁が置かれた拠点の地で、沖縄などから多くの 日本人が移り住んだ。太平洋戦争中、ペリリュー島のような大規模な戦闘はなかったが、米軍による空襲で大きな被害を受けた。
〔特集〕パラオ・ぺリリュー 日米激戦の島
開戦当初から、旧日本軍はパラオを南方進出のための足場として使用し、フィリピンやニューギニアなどの攻略を図った。
1944年3月、米軍は航空機による大規模な攻撃を実施。町は激しく燃え上がり、当時を知るマリヤ・アサヌマさん(85)は「コロールが火の玉になった」と振り返る。同年7月の空襲で自宅に爆弾が落ちてめちゃめちゃになったが、家族と防空壕(ごう)にいて助かった。
戦争が激しくなり、コロールのほか、ペリリュー島の住民たちもパラオ本島へ疎開した。待っていたのは食糧難。パラオ人と違い、ジャングルで食べる物がどこにあるかを知らない日本人の餓死が相次いだ。アサヌマさんも、日本兵が木の下に座ったまま亡くなっていたとの目撃談を聞いた。
ニナ・アントニオさん(83)はある日、畑の作物を取りに行くと、家の小屋に日本兵の姿を見つけた。やせ果て、家族の写真を柱に立てかけ、座っていた。「兵隊さん、バナナをどうぞ」と渡そうとしたが、「私はもう助からない。あなたたちの分が減る」と受け取らず、次の日小屋に行くと姿はなかった。
戦時中の苦しい中、パラオの青年たちは「斬り込み隊」という部隊を結成。米軍が上陸したら、日本の兵隊と一緒に戦う準備をしていたという。
両陛下の訪問について、アサヌマさんは「コロールでもたくさんの日本の兵隊が死んだから、天皇陛下が来るのはいいことだ」と語った。アントニオさんは「学校で毎朝、『私どもは天皇陛下の赤子(せきし)です』と言っていたので、天皇陛下を一度見てみたい」と話した。(2015/04/08-18:12)
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時事ドットコム:ぺリリュー 日米激戦の島1/8
日本は、増援部隊として精鋭と呼ばれた満州の関東軍を転用することにし、昭和19(1944)年4月、第14師団をパラオに派遣。このうち、ぺリリュー島には歩兵第2連隊、第15連隊第3大隊などが送り込まれた。
日本の守備隊は、海軍部隊も含め約1万人。これに対する米軍は約4万人の兵力で、怒涛(どとう)のように押し寄せ、上陸作戦を展開した。米海兵隊が上陸を敢行したのは9月15日。米軍は当初2、3日で陥落するとみていたが、日本側は激闘を続けて多大な損害を与え、兵力消耗後も島内に張り巡らせた洞窟陣地にこもり、持久戦を耐えた。
ペリリュー島内の地図【時事通信社】
「バンザイ突撃」をすることなく、米軍に対して徹底的な持久戦を挑み、一日でも長くその場に釘付けにして、日本の防衛態勢を整える時間を稼ぐことが求められたからだ。
死闘の末の11月24日、玉砕を伝える最後の暗号文「サクラ、サクラ」が司令部に打電され、守備隊長の中川州男大佐(第2連隊長)と第14師団派遣参謀の村井権治郎少将が洞窟内でそろって自決。組織的な戦闘は終結したが、残存日本兵34人は終戦後も日本の敗北を信じず、昭和22(1947)年4月まで抵抗を続けた。
守備隊には、昭和天皇のご嘉賞の言葉が何度も伝えられ、米軍から「天皇の島」と呼ばれたペリリュー。生還した元兵士に、その島で見たものを聞いた。
聞き手:社会部 安田剛史
編集:時事ドットコム編集部
(2015年4月8日)
時事ドットコム:ぺリリュー 日米激戦の島7/8
※話し手は元陸軍軍曹永井敬司さん(93)
(略)
海岸に一挙に突っ込んじゃって亡くなった方が楽なんですよ、兵隊もね。だけど持久戦となったらこれは辛いですよ。毎日攻撃される。きょうはこっちの壕がやられた、きょうはここの壕もやられたということで、だんだん攻めてきますから。それはもう生き延びるってことは一番辛いです。向こうは、戦争が終わらないうちはあくまでも攻撃してきますから。夜も照明弾が撃たれ、日本の夜襲という攻撃パターンができなかった。明るいからね。太平洋の防波堤になれって、当時の軍隊は、えらい命令を下したもんですね。
戦争というのは勝っても負けても、アメリカ兵だってお父さんお母さん、兄弟がいる兵隊だから。第1海兵師団の連中だって。あの島で、そりゃ国の方針で海兵師団として訓練を受けてきたから戦争したものでね、アメリカだって悲しい人がたくさんできたわけ。日本だって我々にも兄弟や親はいた。そこを考えたときに、戦争ほどこの世の中に厳しくて悲しいことはないんじゃないですか。
戦争は人間の一番愚の骨頂。日本では当時、教育などもね、世界の盟主になろう、一等国になろうとか、世界を制覇しちまえなんて教育を受けたんです。そういう野望っていうか、実現しない夢を、教育をしてそういう風にもっていったわけ。そうすると、大東亜戦を振り返って私が考えるに、一番苦労した人は昭和天皇だと思いますね。私どもは軍人だから戦う人だから、戦するのは仕方ないんだわね。国の方針で。いくさびとだから。
時事ドットコム:ぺリリュー 日米激戦の島8/8
終戦後も「抗戦」2年
大東亜戦争なんて始まる前は、日本は井の中の蛙(かわず)なんですよ。竹槍(やり)と原爆の差があるのに、まるっきり無謀でしょう。幼稚園生が横綱に掛かるより以下。それは日本の上層部が勉強足りなかったから。世界の情勢を知らなかった。
当時の軍隊は天皇陛下の統率したもんだからね。直接部下なんですよ。軍人勅諭というのは天皇から下されたもの。「天皇陛下万歳」っていう声を聞いたの、何回もありますよ。「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」って軍人勅諭にあるんですからね。そういう教育を受けた、私ら。だから大東亜戦争で一番苦労したのは昭和天皇ではないですか。苦労なさったと思いますよ。終戦時の詔書など出してね。宮城(きゅうじょう)の前で、日本は勝つと思ってた方で敗戦を悲しんだ方がたくさんいるようです。
いや、(私も)負けるってことは全然思いませんよ。終戦後2年いました。あのね、日中ドーッと銃声が聞こえたんです。今考えてみると、あれが2連隊の根本大尉っていう方らの最後の突撃だったんじゃないですか。(2連隊)副官です。 はっきりしないが50~60人いたらしい。私どもはその頃、富山にいました。それで(組織的な戦闘が終わったことは)大体ね。連隊本部は包囲されてたから。
(その後は、)壕を移ったり湿地に逃げたりいろいろ。山口(永)少尉っていうのが片方の兵隊(のグループ)。私は本部ですから本部の通信とか本部の兵隊と。いくつかに分かれていた。(終戦で)復員局がアメリカと話し合ったんでしょう、ペリリューにはまだ残ってるってことで。海軍の澄川(道男)少将らがマイクで「日本は2年くらい前に終戦になって、平和な復興に努力してるからみんなもう出てきなさい」と、3、4日くらいやりましたかね。だけど私らは日本が負けるなんて全然考えてないから。必ず反撃してくると思ったから。最後まで手は挙げてませんよ。
アメリカはマングローブの木が生えている湿地の方にごみを捨てるんですね。夜、友達がごみ捨て場漁りに行ったんです。そうしたら週刊誌みたいのがあって、米戦艦「ミズーリ」の艦上で、重光大使が降伏調印式をやったんだよね、その写真を見たんだよね。英語がいくらか分かる者が1人いて、これはおかしいと。だけど信用しませんでした。日本は負けないという信念で生きてきたから。
ちょっとは思ったけど信用しませんでした。信用しないから頑張ったわけですよ。(「抗戦」をやめて出てきたのは)一番最後。人数の多い山口少尉の方が出て、その翌日。大隊本部の兵隊と通信など6~7人おりましたよ。私らジャングルの中の飛行場のそばにいたんです。
慰霊ご碑訪問などの正確な時刻が判れば同時刻にお祈りしようと思つたが、まあ警備の都合等もあるだらうし、これ位か。
天皇皇后両陛下のパラオ国御訪問(御日程) 在パラオ日本国大使館(PDF)
因みに米国も遺骨収集に(ともすれば日本より)熱心なんださう。
パラオ情勢(2015年2月) 在パラオ日本国大使館
・天皇皇后両陛下のパラオ御訪問正式決定
23日,閣議決定をもって4月8~9日の日程で天皇皇后両陛下がパラオを御訪問されることが決定した。右決定を受け,レメンゲサウ大統領より,パラオ国民を代表して御訪問を喜ばしく思う旨声明が発出された。
・米国による遺骨収集活動
米国の遺骨収集団が,米国人パイロットの遺骨と所有品を回収するため,1月6日よりパラオに派遣された。同派遣団は,団長の陸軍大尉のラッセル・グリスビー氏のほか,考古学者,爆弾処理専門家,医師等を含む13~18人で構成されており,36~60人の地元住民も作業補助のため雇い,アイライ州内の航空機墜落現場において遺骨調査を行った。今回の作業は2月末までであり,1~2ヶ月後には別のチームが派遣され,水中航空機墜落現場2件の調査を行う予定としている。
日本パラオ友好橋10周年記念切手発売のお知らせ 在パラオ日本国大使館
パラオ・ペリリュー島
(動画が削除されてしまつたが)
といふことで、思はず心の中で「天皇陛下万歳」を叫びまくつてしまつた程、よくぞ訪問して下さつたと心の底から感謝申し上げる次第。
なのに、相変はらず荒らしたり
ttp://hello.2ch.net/test/read.cgi/ms/1428413586/
発狂したりする輩が絶えない模様。
ttp://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/ms/1424776197
ただ、本当に彼等は勉強不足のまま、自分達が好き勝手に描いてゐるだけの浅薄な「天皇・皇族像」に少しでも違ふのが許せないだけの、非常に狭量で幼稚な人達であることを、今回の件で再確認。
(まあ、「好き勝手に」とは書いたが、元々は保守派が宣伝してゐる「自分達に都合のよい天皇像」を信じてゐたら、現実はちよつと違ふところもあつたといふだけの話なんだらうから、文句があるならいい加減な情報を垂れ流した側に言ふべきだと思ふ。尚、「自分達に都合のよい天皇像」の宣伝は左側も似たやうなことをやつてゐるわけで、結局、双方ともに天皇をイデオロギー闘争の具にしてゐるだけなのが虚しい。)
関連ブログもザツと見てみたが、嫌韓病が嵩じて完全に韓国面に堕ちてしまつてゐる模様。
彼等は皇室や神道のみならず、第二次世界大戦や戦争そのものに対する理解も未熟なのではないだらうか。
(読むためには修羅道以下の世界に足を踏み入れる覚悟が要るといふか、波長が合はない為に非常に読みにくいし、反論すべきことが多すぎるし、あまりにも感情的かつ凄まじい呪詛の念が渦巻いてをり、読んでゐると気分が甚だしく悪くなるので熟読出来なかつた・・・まるで原理講論のやうだw)
さういや、所謂東宮問題に進捗がみられないことに業を煮やして天皇皇后両陛下の責任を追求し始めた人達のことを「敗戦した途端、天皇の戦争責任を問ひ出した一部日本人に似てゐる」と評した人もゐたな。
尚、個人的な直感で恐縮ではあるが、私自身は今上天皇の即位の礼の動画やお写真を拝見してゐると、何か自然に天皇陛下のお姿に文仁親王殿下のお姿が重なつて見えたり、伊勢神宮、出雲大社に於いても、「あれ?」と思ふことが多いので、私自身は以下省略。
話が逸れたので元に戻すと、そもそも、今迄の経緯からして彼等の存在自体が怪しいとも思へるし(元々ゐた荒らし+それに煽られる程度の軽率な人達又は初心者や、一連のムーヴメントに乗じたブロガーとか)、自分達の稚拙な推論に基づくものでしかない主張の無謬性を信じて疑はない様、彼等の主張=国民の総意ではないのに、それらを天皇や他の国民にも押し付けんとする様は、皮肉にも未だ天皇を否定し続ける極左のやうでもある。
天皇のパラオ訪問反対4,7大阪集会(PDF)
といふか、改憲派のくせに日本国憲法第1条に出てくる「国民の総意」といふ言葉が大好きなのも何だかなあwww
何だかんだ言つて、所詮は自分達も日本国憲法下で育つた戦争を知らない子供たちだといふ自覚が欠けてゐるのではないだらうか。
因みに、文章中に文脈上全くをかしくない形で「A級戦犯」といふ名詞を用ゐたことにつゐて、皇后陛下にここまでイチヤモンをつけて批判する人達といふのは、私が実際に遭遇した、会話の中で地名として「朝鮮半島」といふ名詞を出しただけで「朝鮮は差別用語だ!差別はやめろ!」と絡んできた在日朝鮮人のチンピラを思ひ出させるものがある。
(※これはそのチンピラ個人の話であり、在日朝鮮人全員がさうではないとは思ふが←また差別と言はれないやう配慮しておいた。)
つゐでのつゐでに書いておくと、(神社にもよるかもしれないが)普通の巫女でも大変なのに、バチカンやQHGの工作員wwwごときがこんなに長い間、宮中祭祀など出来る筈がないとしか思へないわけで。まあ、さう言つて騒いでゐる人達には巫女はもう無理!な年齢の人も多いやうなので、今更なれないとしても、神楽や雅楽でも習つてみるなど、神道に関係のある何かを自分自身が体験してみることによつて、考へも変はるかもしれない・・・と思ひたいところではある。といふかGHQつて、いつまでの話よ?まだ現存してるの?みたいな。とにかく、さいふ陰謀論を拡散する前に確り調べて、それが事実であることを証明してからにして頂きたい。
研究者のためのアメリカ公文書館徹底ガイド まえがき
米国国立公文書館IIの実践的利用法 - アーカイブ情報あれこれ - Cute.Guides at 九州大学 Kyushu University
ttps://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%91%E3%83%A9%E3%82%AA%E3%80%80A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF&gws_rd=cr,ssl&ei=iiAnVcmwKsa2mwWA7YDgBQ
(これまた相変はらず色々なところでタッグを組んで布教してる模様。)
でもつて、生還した元兵士の方々にも「あなた達は戦争犯罪者の仲間ですよね?A級戦犯といふ言葉を使ふやうな皇后陛下に慰霊して頂くことは不満ではありませんか?戦死した仲間の方々はどう思はれると考へてをられますか?」と自分達で尋ねて回つてちやんと調べてみるべきだね。
とりあへずTVや新聞のインタビューを見る限り否定的な意見はなかつたし、今回のご訪問に合はせてペリリュー島を再訪された方までをられた程なのだが。
そもそも東條さんに命を捧げるつもりで戦つた旧日本兵の話など聞いたことがないし、旧日本兵の心情を代弁するかのやうな主張を繰り返してゐても、彼等の発言や遺構などをまともに読んでゐなささうである(もしくは、読んでも読まずなのか。しかも、自分が旧日本軍の兵士だつたら・・・と想像しながら戦史などを読んだりはしないのかね)。
その他の記事等からも、所謂戦争指導者、旧日本軍上層部らとその他の兵士が、彼等の頭の中でごつちやになつてしまつてゐるやうに感じられることがよくある。
それと、こんな訪問に税金を浪費するなら遺骨収集に遣ふべきといふ批判もあるが、それこそ安倍政権に託すべきであつて、天皇陛下はそのやうなことまで実現される権限を有してをられないことを無視し、自分達が批判してゐるサヨクや韓国メディアのやうに「政治利用」したがるとか何なんだ一体。
しかも、ご訪問が契機となつて、遺骨収集が促進されたニュースを知らないかのかと。
時事ドットコム:旧日本軍陣地の壕発掘へ=両陛下訪問前、遺骨収集に協力-パラオ・ペリリュー州知事
あと「政府の反対」があつたのは、10年前の話(理由:要は安全が確保できない為)でしかないのに、完全に今回の訪問と混同してゐる人もゐた。
これはTVで何度も紹介されてゐた話なんだがなあ・・・。
(普段から、とにかく天皇皇后両陛下が批判出来るなら未確認情報だらうが下品な妄想だらうが何でもかんでも節操なく利用してゐるからさうなるのでは。)
両陛下、8日からパラオ訪問 激戦の地で平和祈念 :日本経済新聞
2015/4/5 22:01
天皇、皇后両陛下は8日から1泊2日の日程で、太平洋戦争の激戦地パラオを訪問される。今年は戦後70年の節目に当たり、両陛下は日米の戦没者慰霊碑を訪ね、平和を祈念される。両陛下の慰霊目的の海外訪問は、戦後60年の2005年のサイパン以来2度目。
日本が委任統治していたパラオでは、太平洋戦争中に日本人約1万6千人が犠牲となった。日米が激戦を繰り広げたペリリュー島では日本兵約1万人が戦死、米軍も約1600人が亡くなった。
戦後60年を前に、日本政府は両陛下のパラオやマーシャル諸島、ミクロネシア連邦の3カ国訪問を検討したが、当時は移動や通信手段が不十分だったため見送った。
今回はパラオ側から両陛下に招待があり、政府が改めて調整。両陛下も訪問を強く希望されていたといい、海上保安庁の巡視船を宿泊先とし、移動にヘリコプターを使うなどして実現させる。
両陛下は8日午前、航空機で羽田空港を出発し、同日午後にパラオ国際空港に到着される。大統領夫妻との会見や歓迎式典の後、コロール島での晩さん会などに臨み、マーシャル諸島やミクロネシア連邦の大統領夫妻とも懇談される。
翌9日にヘリコプターでペリリュー島に移動し、日本政府が建てた「西太平洋戦没者の碑」や米国の慰霊碑を訪問し、供花される。ペリリュー島の島民とも交流し、同日夜に帰国される。
両陛下は3月下旬から風邪の症状が続いているが、行事への出席を一部取りやめるなどして体調を整えられている。
両陛下は05年、激戦地だった北マリアナ諸島の米サイパンを訪問。現地の慰霊碑に供花し、追い詰められた日本人が身を投げた「スーサイドクリフ」や「バンザイクリフ」で黙とうされた。
それから、皇后陛下が目立ち過ぎ、などと批判してゐる人は低俗な週刊誌等の読みすぎ、又はそれらに毒されてゐるだけなのではないだらうか。
私はTVなどで両陛下を拝見しても、天皇陛下中心に観てしまふといふか、意図せずともいつもさうなるので、その感覚がよくわからない。
来年は戦後70年 天皇皇后両陛下がパラオなどご訪問計画も - Ameba News [アメーバニュース]
などと、ちよつと反論してみただけでも、こんな具合である。
とにかく、彼等が賛美する昭和天皇の御遺志を受け継がれてをられるだけだとしか思へない今上天皇を(靖国神社参拝の件も含め)、何故に昭和天皇と比較して批判するのかと(これも単に勉強不足だからだらうが)。
また、彼等の見てゐる世界と天皇陛下のそれとでは規模が違ひ過ぎることや、双方のバランス感覚の差異にも思ひ至らない頭の悪さに辟易する。
と同時に、今上天皇が彼等のやうな狭量かつ暴力的な思想の持ち主であらせられないことに心の底から安堵する。
以上。
追記。
時事ドットコム:4月10日 今日は何の日?
【1959年】
皇太子・明仁親王と正田美智子さんが結婚
皇居・賢所で、皇太子・明仁親王と正田美智子さんの結婚の儀が執り行われた。パレードでは53万の人々が沿道を埋め、普及したてのテレビの売れ行きも急増。なべ底景気の不況も一転し、岩戸景気が訪れた。写真は、パレードで馬車から応えられる皇太子ご夫妻【時事通信社】