"ブックサーフィン"という愉楽――あるいは書淫
『天皇との距離 三島由紀夫の場合』への助走
第一部
三島由紀夫の「切腹」
その"ザッハリッヒ[sachlich]"な有り様を推理する
その一
それとあとね、残酷とかね、そういうものはコンクリートなものです。ザッハリッヒなものですね。そのザッハリッヒなものはね、あのう、どういう形でバタイユが扱うかというとね、バタイユはそれをつまり、あの、ザッハリッヒに扱わないですね。(三島の声を聴く)
(「三島由紀夫 最後の言葉」(昭和45年11月18日死の一週間前、古林尚との対談、新潮カセット、1時間、1989年4月20日発行)
それにしても"sachlich"の調音の見事さはどうだろう。日本語発話の中でこれほど正確なドイツ語音を聞かされると違和を感じさせられぬでもない。「今夜は"Girl's bar"へ行こうぜ」の"girl's"がやけに正確な英語音であった場合を想像してみればいい。ドイツ語授業では余所見も考え事も内職も、ましてや居眠りなどしてはいなかったことが窺われる。こうした点、更に三島のフランス語の発音などについては「第二部」以降で触れる機会がある。
この箇所、「圖書新聞」(昭和45年1月1日第二面)には次のように掲載されている。
それから残酷もありますが、あれはコンクリートなもので、普通にはザッハリッヒ(客観的、即物的)なものと考えられています。ところがこれを、バタイユはザッハリッヒなものとして扱っていません。
この短い箇所からでも、対談で交わされた音言葉が文字言葉に置き換えられると、どれほど大幅に手を加えられ整理されるかがよく分かる。そして過度な加筆と整理は改竄・捏造へと行き着きかねないのだが、まさかその実例を「三島のこの作品」で見聞させられることになろうとは思いもしなかった。(注 furu)
『新評 臨時増刊 全巻 三島由紀夫大鑑』(1971年1月25日発行)所収の「三島由紀夫対談 いまにわかります 本心をあますところなく吐露した死の七日前の言葉 きき手 古林尚(圖書新聞12月12日号)」にこの箇所は見当たらない。
『決定版 三島由紀夫全集 第40巻』(新潮社)では、
それから残酷もありますが、あれはコンクリートなもので、ふつうにはザッハリッヒ(客観的、即物的)なものと考えられています。ところがこれを、バタイユはザッハリッヒなものとして扱っていません。(754頁)
この箇所に限ると「普通には」(「圖書新聞」)と「ふつうには」(全集)の違いしかないが、新潮カセット「三島由紀夫 最後の言葉」(音声)と『決定版 三島由紀夫全集 第40巻』の「三島由紀夫 最後の言葉」(活字)を比べると、後者は半ば古林尚の創作ではないかと疑えるほど前者とは別物である。この点は別稿で論じることになる。「全集」の解題によれば、対談時間は約二時間、一時間に編集されたものが「新潮カセット」及び「新潮CD(2002年6月発行)」として公開されている。『決定版 三島由紀夫全集 第40巻』の「三島由紀夫 最後の言葉」の取り扱いには最高度の注意を要する。(注 furu)
書物の世界を、あたかも寅さん気分で、風の吹くまま気の向くまま、ままよーっとつられて行っちまうことにした。
風の吹くまま気の向くままってやつだょ。道の真ん中でょ、こって指に唾(つばき)つけるだろ。で、こやって出すわけだ。風が吹いてきたなぁっていう方へ、いっしょにつられて、ふーっと行っちゃうわけだ。
(第二十九作『寅次郎あじさいの恋』)
てなことを口にしながらも、実は寅にはひそかに行く当てがあるのかもしれない。私はといえば、風に吹かれるまま雑多な雑誌やら書物やら経巡るうちに、以下の週刊誌記事に行き当たり、やがて、一つの推論へと促されることになる。
それにしても映画の台詞の作りの入念さには恐れ入るほかはない。寅さんの音言葉をそのまま文字言葉に置き換えてみて分かったことだが、そこには寸分のすきもない。あるいは渥美清の台詞回しの精緻。台本を見ればどちらなのか判明しよう。
ただ、台詞が錬られ過ぎて生の音言葉から乖離しているのではないか、これは現実に耳にし得る類の音言葉なのか、という払拭し得ぬ疑念はさておき、風の吹くまま気の向くまま、もうちょいとつられて行っちまうことにして、いきなり溝口健二の『雨月物語』、当時の庶民言葉、戦国時代の近江国琵琶湖北岸の庶民言葉の再現まで求めはしないものの、アナウンサーが演じているが如きほぼ標準語の、訓練を受けた発声による音韻明瞭な台詞回しには辟易させられた。(「源十郎と宮木のやり取り」を聴く)
百姓、庶民の滑舌は、私もその例には漏れず、決していいものではないし、それどころか、聞き取りづらいことしばしばという程度の発声である。字幕なしでは何言っているのか分からないような音声だって珍しくない。外国語映画で字幕を用いているのだから、日本語映画でもそうすればいい。
第13回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞したこの映画作品の、既に定着しているらしい高い国際的評価は、日本語を母語とするものにしか分からぬ事情を考慮に入れた上でなされているものではあるまい。社会階層が明確に分かれている地域、社会では、どの階層で生きているかに応じて、人々の言葉には截然とした区別が生じる。例えば、ロンドンの庶民階層の話す英語がBBCニュースキャスターの話す英語とは別物であることは今なら容易に体験できるはずだ。
序だから、寺尾聡主演の『雨あがる』、冒頭の場面、四人の渡し人足いずれもその標準語の滑舌のいいこと、確かな発声と明瞭な発音。あたかも舞台から一番遠い客席にまで声を届けんとの朗々たる台詞回し、紛れもなく舞台の台詞回しで、必死に演じているのが見え見えだった。下手ってのはそういうことなんだろうけど、余りにも作り物めいていて笑いたくなった。続く場面でも同じ。河止めで雑魚寝しか出来ない二階建てのみすぼらしい船宿に足止めされた原田三枝子演ずる夜鷹を含む数十人の百姓町人たち、老人を含めみな誰も彼もその滑舌のいいこと。心肺機能も口や喉や声帯の筋肉も衰え、相当数の歯も失い、音言葉の不明瞭にならざるを得ない老人の言葉の音韻の明瞭なこと。松村達雄演ずる老人の音言葉、これもまた舞台の台詞回し。ついでに主役の寺尾聡も滑舌がよすぎる。彼の親父の宇野重吉の声音はもごもごしてて、その音言葉は過度に明瞭じゃなかった気がする。江戸時代、侍がたしなみとして滑舌や発声の鍛錬に励んだなど、寡聞にして風の便りに聞いたことさえない。(『雨あがる』 冒頭 を聴く)(「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」 から「宇野重吉(池ノ内青観役)と寅次郎の掛け合い」を聴く)
『雨月物語』は最後まで見た。『雨あがる』は見るに耐えずというか、聞くに耐えず、十数分で退散させていただいた。地球上の多くの地域で、庶民は、取り分け北国の庶民は『マグロ』(渡哲也主演、テレ朝で二〇〇七年の一月四日、五日に放送された下北半島が舞台のドラマ)に出演した俳優たちほどに、大きく口を開けて、極めて滑舌のいい話し方をするわけではない。一体、俳優の役作りとは何だ。
俳優たちの発する音言葉の明瞭さは朗読をさせてみるとよく分かる。一般人の中から発声も滑舌もそこそこいい人を選んで朗読させ、比べてみるといい。気の毒だが、一般人、素人の朗読、聞きづらいこと甚だしい。
松竹大谷図書館のホームページには「男はつらいよ 第1作やガンダムシリーズの台本」があると記載されているが、第二十九作『寅次郎あじさいの恋』の台本があるかどうかは貧弱なホームページからは調べようがない。この件はいつか暇ができたら、ということにしておく。
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