これまでの人生、引っ越しを20回しました。19歳で実家を出る前が2回、それ以降が18回。なので18回は自分の意思で引っ越しをしており、最後の20回目の引っ越しは4年前で、その時は転勤と再婚のタイミングを合わせて、再婚相手が住まう地方に越してきました。
それまではずっと日本国内では関東圏の都会近郊で生活していたことと、19歳から30代前半までは海外に住んでいたので、「地方」に対して無意識に偏見を持っていたような気がします。越してきてしばらくは、視界に高層ビルがないこと、駅に人がまばらなこと、満員電車が走っていないこと、個人経営のお店が多いことなど、プラス面の環境変化が新鮮でした。それ以降は、やっぱり探しても探しても文化的なインプットと刺激が絶望的に無いことが、ダラダラと気になっています。文化も実家も果てしなく遠い。これが20代・30代の頃だったらとても苦しかったはずです。50代を目の前に控えた今は、文化は旅費というプラスαを支払って取りに行けばいいと考えてはいます。でもそこまでするのが億劫で、インプットを求めて活発に出かけることも少なくなりました。
30年間で20回も引っ越しをするとどうなるかというと、私の場合、モノへの執着が少なくなり、物事と選択の優先度を可動性と効率で見るようになりました。いつでも身軽でいようという意識が常にあります。本のページを捲りながら読書をすることは大好きでしたが、本は引っ越しとの相性が良くないので、余程の思い入れがない限り都度処分してきました。ここ数年はもっぱらKindleで読んでいます。荷造りと荷解きが異様に速いことが自慢です。出張や旅行から帰ってきたら、一息つく前に全ての荷物を瞬時に片付けます。
こんな風な生活を30年もして来たからなのかどうなのか確かめようが無いけれど、朝、睡眠から目覚めに向かうほんの一瞬の間に、「今目覚めようとしているのはどこの誰なのか」、情報を集め直す時間が必要な時がたまにあります。場所がわからないだけではなくて、一番近い表現をすると「あれ?今って一体どんな設定でやってるんだっけ?」という感覚です。問いかけているのは紛れもなく自分自身なのだけれど、起きようとしているのが誰なのかがさっぱりわからない、まっさらな空間に覚醒します。その空間には時間の感覚もありません。面白いなと思うのは、自分の設定を思い出すプロセスでは、時代と性別をまず確認しようとします。その次に場所を思い出して「あーはいはい、これね!」となって、はじめて「目覚める」ことができます。ひどい時には目覚めてしばらく経っても窓の外など、視覚的な情報を入れないと季節の感覚がわからないという場合もあります。
この感覚が起きる頻度が少しずつ増えているような気がします。これは生きている=死んでいくという過程にあるあるな現象なのか、それとも、これも更年期障害の症状なのか。婦人科に行ったら聞いてみようと思いつつ、変なおばさんの話なんかまともに聞いてもらえないような気がして、勇気が出ません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます