10月24日土曜日、秋晴れの穏やかな一日でした。
葦笛秋の会が、ノートルダム唐崎修道院で行われました。
修道院へは、JR湖西線唐崎駅から琵琶湖にむかって約10分。
国道に出て、「本のがんこ堂」のよこの「ミニストップ」をさらに琵琶湖の方へ
正面に見えるのが、修道院入口です。
マリア様が出迎えてくださいます。
今日の講師は2年前にもお越しくださいました、NHK広島アナウンサー室勤務の出山 知樹様です。
「戦後70年広島から見えてきたこと」というテーマです。
11時、3階のお聖堂で今日の集いを感謝し、世界の平和を願い、心をあわせお祈りをしました。
お聖堂からは琵琶湖が一望できます。
この日のために出山様は3本のDVDを準備くださいました。
まず一本目は、広島を伝えたいという思いでロシアの子供たちと共同作業で原爆ドームの模型を、色々な困難を乗り越え
完成させたドキュメンタリーです。
そして、お昼。おなじみのまんぷくおにぎりのお弁当、おいしくいただきました。
午後からの1本目は
旧日本銀行広島支店が舞台です。
旧日本銀行広島支店は、原爆投下後、焼け野原の中で残った建物です。
ここで警備の仕事をされてた難波さんは、なるべく多くの方に広島を知ってもらいたいと、お客さんにガイドもされてました。
原爆の爆風にも耐えて建物は残りました。しかし。その時建物にいた人たちはどのような状況でどのようになったのか・・・。
難波さんはそのことに疑問を持ち、仕事の傍らたくさんの資料を調べておられました。
そして、一人だけ3階の窓から左足のない状態で落ちて亡くなられていた方のお姉さんが、なぜ妹ひとりだけが窓から落ちたのかをずっと心に思っておられました。そしてそのことを調べて欲しいと難波さんに言われ、調べはじめられます。なんと、強烈な勢いで窓から入り込んだ原爆の爆風で、その時廊下にいた妹さんは、反対側の窓から吹き飛ばされたという事実がわかったのです。
最後は、12歳の時に爆心地から1.5キロの所での学徒動員作業中に、顔左半面、右手首、左手の甲、爆風にとばされ打撲による右耳障害の醜状ケロイドを受けられた女性が、あと何年生きられるだろうと、ふと思われた時に、封印して夫以外誰にも話さなかったあの日の壮絶な惨状を後世に伝え、戦争は絶対に罪悪で罪のない人を如何に苦しめその人生を変えてしまうかを心から納得していただく事が使命と思われて、重いペンをとり書かれた手記を、高齢者が気軽に立ち寄る場を作りたいという願いのもと、昨年オープンされた食堂「光輝幸齢者の集い」にこられたお客さんに配り、世界平和を願っておられる82才の女性のドキュメントでした。
被爆から70年、その長い長い時間の中で、どういった事をどのように行ってきたのか?
世界の平和、平和のとうを考えるひと時でした。
葦笛秋の会が、ノートルダム唐崎修道院で行われました。
修道院へは、JR湖西線唐崎駅から琵琶湖にむかって約10分。
国道に出て、「本のがんこ堂」のよこの「ミニストップ」をさらに琵琶湖の方へ
正面に見えるのが、修道院入口です。
マリア様が出迎えてくださいます。
今日の講師は2年前にもお越しくださいました、NHK広島アナウンサー室勤務の出山 知樹様です。
「戦後70年広島から見えてきたこと」というテーマです。
11時、3階のお聖堂で今日の集いを感謝し、世界の平和を願い、心をあわせお祈りをしました。
お聖堂からは琵琶湖が一望できます。
この日のために出山様は3本のDVDを準備くださいました。
まず一本目は、広島を伝えたいという思いでロシアの子供たちと共同作業で原爆ドームの模型を、色々な困難を乗り越え
完成させたドキュメンタリーです。
そして、お昼。おなじみのまんぷくおにぎりのお弁当、おいしくいただきました。
午後からの1本目は
旧日本銀行広島支店が舞台です。
旧日本銀行広島支店は、原爆投下後、焼け野原の中で残った建物です。
ここで警備の仕事をされてた難波さんは、なるべく多くの方に広島を知ってもらいたいと、お客さんにガイドもされてました。
原爆の爆風にも耐えて建物は残りました。しかし。その時建物にいた人たちはどのような状況でどのようになったのか・・・。
難波さんはそのことに疑問を持ち、仕事の傍らたくさんの資料を調べておられました。
そして、一人だけ3階の窓から左足のない状態で落ちて亡くなられていた方のお姉さんが、なぜ妹ひとりだけが窓から落ちたのかをずっと心に思っておられました。そしてそのことを調べて欲しいと難波さんに言われ、調べはじめられます。なんと、強烈な勢いで窓から入り込んだ原爆の爆風で、その時廊下にいた妹さんは、反対側の窓から吹き飛ばされたという事実がわかったのです。
最後は、12歳の時に爆心地から1.5キロの所での学徒動員作業中に、顔左半面、右手首、左手の甲、爆風にとばされ打撲による右耳障害の醜状ケロイドを受けられた女性が、あと何年生きられるだろうと、ふと思われた時に、封印して夫以外誰にも話さなかったあの日の壮絶な惨状を後世に伝え、戦争は絶対に罪悪で罪のない人を如何に苦しめその人生を変えてしまうかを心から納得していただく事が使命と思われて、重いペンをとり書かれた手記を、高齢者が気軽に立ち寄る場を作りたいという願いのもと、昨年オープンされた食堂「光輝幸齢者の集い」にこられたお客さんに配り、世界平和を願っておられる82才の女性のドキュメントでした。
被爆から70年、その長い長い時間の中で、どういった事をどのように行ってきたのか?
世界の平和、平和のとうを考えるひと時でした。