【17日目 信濃路 長野県】 令和6年(2024)3月14日(木)晴
宿場距離:三留野宿~落合宿 17.9km
歩行距離:南木曽駅から落合宿 21.0km(累計405.7km) (日本橋・落合 3割増405.7/331.2=1.22)
行 程:前橋3:30==7:20中津川駅前P--中津川駅7:49=(330円)=8:09南木曽駅--9:20妻籠宿--10:43男滝女滝--11:40馬籠峠--12:30馬籠宿・昼食13:00---13:45「これより北 木曽路碑」---14:48落合宿---16:44中津川駅前P==17:10木曽路ふるさとYH(1泊2食6,200円)
昼食:馬籠宿恵盛庵 山菜蕎麦1,100円
早朝、高速道路深夜割引を利用して前橋から中津川へ
中津川駅前に車を置き、電車で南木曽駅へ向かう
各駅停車松本行 中津川から松本方面はSuica等カードは使えない
【三留野宿から落合宿 8:15南木曽駅を出立】
駅を出るとフランス人の夫婦に一緒に中津川まで行かないかと声をかけられたので一緒に行くことにした
初めての日本だそうだが、二人で中山道歩きとは驚いた
前回中山道到達点から出発
駅から300m程歩き枝垂桜を眺めているとフランス人には興味は無いらしく
先に早足で先に行ってしまった
巴御前袖振りの松跡 平成22年に新しくい松を植えてある
元の袖振りの松は平成21年松くい虫被害により伐採され、近くの「かぶと観音」境内に水船に加工
「せん沢道標」国道や南木曽駅が記入され比較的新しいが道迷いせずに済むのでありがたい
上久保(うわくぼ)の一里塚 江戸日本橋から80里目 南木曽駅から1.8km 8:50
左右の塚が残っている
解説版には78里目とある。前の「十二兼の一里塚」が78里で79里の「金地屋の一里塚」は不明
良寛(1758-1831)歌碑
くぼほら茶屋跡
自然石道標のあるY字路
しろやま茶屋跡
何時建てられたものか廃屋が残る
旅人には立札だけの表示より目印になるがどうしたらよいのやら
三叉路の真ん中を行く 右は妻籠城跡
【42番目妻籠宿着 日本橋より宿場間距離318.9km (9:15 南木曽駅より3.3km)】
御宿大吉
妻籠入口の旅館、平屋に見えるが「がけや造り」の二階建
鯉岩
鯉の形をした岩だったが明治24年(1892)濃尾大地震で形が変ってしまった
鯉ケ岩の向が熊谷家住宅(南木曽町有形文化財)、十九世紀初頭に建てられた長屋の一部で左右の半分ずつ1軒として使用されていた。(狭いながらも・・・)
17世紀半ばまであった口留(くちどめ)番所跡、往来の人々を監視していた
枝垂れ桜が咲き始めた
桝形にある高札場
街並み
脇本陣 奥谷、林家が脇本陣を勤め、問屋、庄屋を兼ねた
建物は明治十年(1877)に建て替えられたもので国重要文化財、南木曽町博物館になっている
休憩所には雛飾り
本陣跡 島崎藤村の母の実家
観光案内所には外国人二人
これまで街道を歩いているのは外国人ばかりで地元の人以外日本人は見ない
郵便局&郵便資料館
重要伝統的建築物保存地区の街並みに合うよう出梁造の様式で建築されている
昭和40年代に全国に先駆けて保存運動が起き、 町並みを守るために家や土地を「売らない・貸さない・壊さない」 という3原則をつくり、ここで生活しながら江戸時代の町並みを今に伝えている
昭和51年に「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された
寒山十徳像
1984年9月14日の地震で光徳の石垣の一部が崩れ落ちこの石像が瓦礫の中から見つかった
* 寒山拾得(かんざん じっとく)は、中国江蘇省蘇州市楓橋鎮にある臨済宗の寺・寒山寺に伝わる風狂の僧
上嵯峨屋 南木曽町有形文化財
江戸中期の形式をよくとどめ、庶民の旅籠(木賃宿)としての雰囲気をうかがうことができる
寺下地区の街並み
日本で最初に宿場保存事業が行われた地区
尾又橋から田島橋間は災害のため通行止めのため蘭(あららぎ)川を尾又橋で対岸に渡る
中山道さんま碑 「さんま」の謂れは分からない
石柱道標 中山道と飯田街道の分岐点
明治十四年(1881)建立 「中山道 西京江 五十四里半/東京江 七十八里半」「飯田道」
大妻橋 右手の民家の庭に石柱道標
大妻橋を渡り、馬籠へは右に入る
馬頭観音のある山道を進む
旧旅籠金剛屋 現在は蕎麦屋 弘法大師碑がある
「南大師遍照金剛」の「金剛屋」
大妻籠
大妻籠集落は妻籠宿と馬籠宿の間にある間宿
大妻籠街並み
右手のまるや、つたむらや、は今も民宿をやっている
大妻籠の一里塚 江戸日本橋より81里 (10:18 南木曽駅より5.7km)
県道を横断する
向かいから歩いてくるのも外国人
手すりの下に「どうがめ澤 下り谷を経て馬籠峠へ」と書いた石標
下り谷の一里塚跡
県道を横断し登り始めの右手にある初期の一里塚跡
牛頭観音 中山道唯一の牛頭観音
男滝
女滝
小説「宮本武蔵」では武蔵とお通との恋の一場面となった滝。町指定名勝
滝上の旧道は災害のため通行止め
馬籠峠入口
一石栃白木改番所跡
木曽から移出される木材を取締るために設けられた番所
一石栃立場跡 白木改番所に隣接する
立場前の枝垂桜が見事
無料休憩所になっており中は外人さんばかり
管理人に話を聞くと
「日本人はバスで妻籠や馬籠に来て宿内を見て帰る人が多く、歩いているのは外国人が多い」とのこと
南木曽駅からここまで街道を歩く日本人には会っていない
標高777mのラッキーポイント
馬籠峠 標高790m (11:40 南木曽駅より8.8km)
長野県と岐阜県の県境は峠を少し下がった所にある
馬籠宿は木曽地域で昭和・平成の市町村合併まで長野県であったためか??
県道を横断する
【43番目馬籠宿着 日本橋より宿場間距離326.7km (11:50 南木曽駅より9.3km)】
今井家住宅(中津川市景観重要建造物指定)
十返舎一九の碑 「渋皮の むけし女は見えねども 栗のこはめし ここの名物」
文化八年(1811)十返舎一九は木曽路を旅して木曾街道続膝栗毛を著している
*中津川は栗の産地で、栗きんとんの発祥の地とも言われている
石畳道の梨の木坂
双体道祖神 二人の上に月日が彫られている
陣馬坂口
馬籠上陣馬跡から恵那山
左の石は「越県合併記念碑」昭和33年と平成17年の合併により、この地が長野県木曽郡南木曽町から岐阜県中津川市馬籠となった
贄川から馬籠までの木曽11宿の内馬籠だけが岐阜県となった
碑には島崎藤村著夜明け前の「あの山の向うが中津川だよ 美濃は好い国だわねー」が刻まれており木曽への対抗意識が伺える
高札場
高札場に隣接する蕎麦屋上但馬屋「恵盛庵」で昼食
山菜蕎麦1100円はやや観光地価格
ここも行き交う人は皆外国人ばかり
馬籠の街並み
馬籠宿脇本陣跡 脇本陣は明治の大火で焼失し、跡地は馬籠脇本陣資料館
本陣跡 跡地は藤村記念館
中心部の街並みに入ると日本人観光客も
馬籠郵便局は街並みに合わせた意匠
175
桝形 右に阿弥陀堂
馬籠宿の京口
「江戸江八十里半 京江五十二里半」
馬籠城址
天正十二年(1584)秀吉方の島崎重通(藤村の祖)が守備したが、徳川勢の大軍の前に城を捨て妻籠城に撤退したため馬籠宿は戦火を免れたが、徳川の世になると馬籠城は廃城となった
旧山口村のマンホール
村の木・ツバキと村の花・ムラサキツツジ
諏訪神社 馬籠村の鎮守
正岡子規句碑のある公園 「桑の実の 木曾路出づれば 麦穂かな」
中津川が一望できる
新茶屋解説版
近くに「新茶屋」「是より北 木曽路の碑」「芭蕉句碑」「一里塚」がある
「是より北 木曽路」の碑
碑文は島崎藤村が昭和15年に揮毫したもの
芭蕉句碑 「送られつ 送りつ果ては 木曽の穐(あき)」
新茶屋の一里塚
一里塚近くにに信濃と美濃の国境標識がある
木曽路の終点、ここからは美濃路
美濃路は十六宿、落合、中津川、大井、大湫、細久手、御嵩、伏見、太田、鵜沼の9宿が東美濃で尾張藩領
新茶屋方面を振り返るとゴマ塩模様の舗装が気にかかる
ここから東美濃はこの舗装路に従えばよい
落合の石畳へ入る
石畳は明治期に荷車の邪魔になると一部を除いて撤去されたが平成6年に復元された
「なんじゃもんじゃの杜」
和名を「ヒトツバタゴ」といい5月頃樹木一杯に白い花を咲かせる
高崎市のヒトツバタゴ街路樹(2008.5.14撮影)
落合石畳西口(京都側) 石畳が終わるとゴマ塩舗装が待っている
浄土宗 瑠璃山医王寺
医王寺境内には芭蕉句碑「梅が香に のっと日が出る 山路かな」がある
この句は中学校の教科書に出てきて「のっと」という擬態語について得意げに語る先生の顔が思い浮かんだ
落合川
飯田道追分
追分から通ってきた落合川と下桁橋(落合橋)を振り返る
【44番目落合宿着 日本橋より宿場間距離331.2km (14:45 南木曽駅より16.0km)】
落合宿高札場
落合宿の東口(江戸口)の桝形
中津川市落合地区のマンホールは「史跡落合の石畳」の周りに自然をデザイン
市の花サラサドウダンツツジのものも
寛政四年(1792)建立の秋葉山常夜燈
落合宿の街並み
脇本陣跡
本陣跡
助け合い大釜
2003~2019年までこの大釜で千人分のキノコ汁を作って観光客にふるまった
宿を振り返ると正面に恵那山、京方面からは恵那山を見ながら進める
曹洞宗 善昌寺と門冠(もんかぶり)の松、樹齢四百五十年
おがらん四社「愛宕神社、山之神神社、天神社、落合五郎兼行神社」と落合五郎兼行之城跡碑
木曽義仲の家臣四天王の一人といわれた落合五郎兼行が、美濃口の押さえとしてこの地に館を構えたとされおり館跡は「伽藍」からくると思われる「おがらん」の名で呼ばれている
与坂バス停付近
中山道を示す標識もあり、ゴマ塩舗装をたどれば道迷いは無い
与坂 坂道の連続にお疲れモード
与坂番所跡(天明二年(1782)この先の上金へ移設)、立場茶屋越前屋跡
右は弘法大師、左は不動明王
解説版は全て英語 通行人は殆ど外国人なのでこれでいいのかと納得
子野の一里塚跡 江戸日本橋84里目 (15:30 南木曽駅より17.9km)
東塚が残っている
Bato-kannon is one of six major "kannon". who hasa human body with the head of a horse.
ここも英文ノミの解説版あり
カメラのCANONは「kannon」からきていることを思い出した
御嶽神社(覚明神社)と御嶽教槙坂覚明霊地保存社
御嶽山黒沢口登山道の開拓をした覚明行者は、木曽御嶽山に向かう途中、こも場所にあった槙坂茶屋で休息をしこの地に三年間過ごした。覚明行者の没後、茶屋の主人が祀ったのが「覚明神社」の始まりと伝えられていえる。
無料休憩所「快心庵」
台湾の会社と地元ロータリークラブが建てたらしい、木曽路は国際的だ
花の咲いている時季に観たい姿のいい枝垂桜、根元に慈母観音と庚申塔、徳本上人名号塔、如意輪観音
弘法大師と十一面観音
上金村
秋葉大権現常夜燈、廿三夜塔
常夜燈の下部は古そう(文政六年(1823))だが上部は新しいものか?
双体道祖神 古くはなさそう
尾州白木改番所跡
天明二年(1782)、通ってきた与坂から移設され、木曽から搬出される材木を監視
経王書写塔(きょうおうしょしゃとう) 安永八年(1779)建立
台石の下に法華経の経文を一字づつ一寸(約3cm)の丸い小石360個に墨で書いたものが納めてある
茶屋阪
中津川市街地が一望できる
【45番目中津川宿着 日本橋より宿場間距離335.1km (16:06 南木曽駅より19.4km)】
高札場 中津川宿の江戸(東)口
高札場の並びに常夜燈、文化二年(1805)建立の庚申塔、天保六年(1835)建立の二十三夜搭
「スヤ」
元は元禄年間創業の「酢屋」で今は栗きんとんの老舗
中津川は栗の街だそうだ
桂小五郎隠れ家跡の料亭やけ山跡
文久二年(1862)、追われる長州藩士桂小五郎(木戸孝允)はここに身を隠した
「中津川会談」で桂の主張により長州藩は尊王倒幕を決断
公衆トイレも時代がかって洒落ている
本日はここまでとして、駐車場に止めてあった車で宿に向かう
宿泊地 「木曽路ふるさとYH」と夕食
日光道中を挟んで中山道を再開
日中は春の陽気ですが朝夕冷えるので春用の着物に防寒様を予備にと荷物が増えてしまった
南木曽駅から中津川まで歩いているのはドイツやフランスといったヨーロッパの人ばかりでした
妻籠・馬籠宿には街中に日本人と中国系の人々が
このエリヤではやはり観光地価格でしたが、安価なユースホステルは我ら二人きり
道中すれ違った外国人は何処に泊まっているのだろうか
↓そんな訳で 押していただくとたすかります
地図
これまでの記録はこちら
*参考
「ちゃんと歩ける中山道69次」 八木牧夫著 山と渓谷社
「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
五街道ウオーク:上記本の著者八木牧夫さんのホームページ
電子足跡・中山道歩き旅GPSログがとても参考になります
「長野県:歴史・観光・見所」
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