上州からの山旅

凡人noyamaの山旅の記録

中山道69次を歩く

2023年01月31日 | 街道を歩く
中山道69次を歩く

 江戸日本橋から京都三条大橋を結ぶ街道。69次135里24町8間(約540km)
 徳川家康は慶長六年(1601)東海道の整備に着手し、翌年中山道の整備に着手
 中山道は当初「中仙道」と書かれたが、享保元年(1716)に「東山道」の内「中筋の道」ということで「中山道」の字に統一された
【武蔵國】
1:日本橋~浦和宿(歩行距離30.3km/累計30.3km) 2023.01.04
2:浦和宿~桶川宿(25.7km/56.0km) 2023.01.05
3:桶川宿~熊谷宿(27.7km/83.7km) 2023.01.06
4:熊谷宿~本庄~【上野國】新町宿(39.8km/123.5km) 2023.01.12
【上野國】
5:新町宿~松井田宿(38.6km/162.1km) 2023.01.17
6:松井田宿~横川駅(9.9km/172.0m) 2023.01.22
7:横川駅~【信濃國】軽井沢宿軽井沢宿(17.0km/189.1km) 2022.12.02
【信濃國】
8:軽井沢宿~岩村田宿(26.1km/215.1m) 2023.02.04
9:岩村田宿~芦田宿(17.1km/232.2km)
10:芦田宿~長久保宿 笠懸峠越え(10.1km/242.3km) 2023.11.17
11:長久保宿~下諏訪宿 和田峠越え(32.5km/274.8km) 2023.11.18
12:下諏訪宿~塩尻 塩尻峠越え(18.0km/292.8km) 2023.11.19
13:塩尻~本山~【木曽】贄川・奈良井(26.2km/319.0km)2024.01.11
【木曽國】
14:奈良井~木曽の桟(鳥居峠越え)(29.5km/348.5km)2024.01.12
15:木曽の桟~野尻 (26.2km/374.7km)2024.01.13
16:野尻~三留野 (11.5km/386.2km)2024.01.14
17:三留野~中津川 (木曽路ハイライトの妻籠・馬籠) (21.0km/407.2km)2024.03.14
【美濃國】(三留野・妻籠・馬籠まで木曽、落合から美濃)
18:中津川~大湫(十三峠越え) (20.7km/427.9km)2024.03.15
19:大湫~御嶽(まだまだ続く峠越え) (27.0km/454.9km)2024.03.16
20:御嶽~太田(最後の三大難所を越える) (17.1km/472.0km)2024.03.17
21:太田~加納(最後につなぐ) (28.4km/500.4km)2024.05.11
22:加納宿:岐阜駅以西(青春18切符で岐阜へ) (7.7km/508.1km)2024.03.26
23:加納~関ケ原(信長から家康の旅) (29.0km/537.1km)2024.03.27
【近江國】(関ケ原・今須までは美濃、柏原から近江)
24:関ケ原・今須【近江】柏原~鳥居本(今須峠・摺針峠を越える) (23.7km/560.8km)2024.03.28
25:鳥居本~高宮(青春18切符帰宅) (6.6km/567.4km)2024.03.29
26:高宮~武佐(夜行バスで行く) (22.1km/589.5km)2024.04.25
27:武佐~草津(東海道と出会う) (29.0km/618.5km)2024.04.26
28:草津~京都三条大橋(ゴ~~ル) (25.8km/644.3km)2024.04.27


*参考
参考1:「ちゃんと歩ける中山道69次」 八木牧夫著 山と渓谷社
参考2:五街道ウオーク:上記本の著者八木牧夫さんのホームページ
参考3:電子足跡:GPSログがとても参考になります
参考4:「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
参考5:ウイキペディア
参考6:「長野県:歴史・観光・見所」
参考7:日本の街道を歩く旅
参考8:きままに歩く:解説版などの写真があり現地情報がよくわかる

【用 語】

【距 離】
1間≒1.818m 1町=60間≒109m 1里=36町≒3.927km
【本陣】
江戸時代の宿場で 大名や旗本、幕府役人、公家等身分の高い人が泊まった。一般の人は泊まれない。
【中山道三大難所】
 ・碓氷峠 ・木曽の桟(かけはし) ・太田の渡し
【立場(たてば)】
 江戸時代の五街道やその脇街道に設けられた施設。次の宿場町が遠い場合はその途中に、また、峠のような難所がある場合はその難所に、休憩施設として設けられたもの。茶屋や売店が設けられていた。立場が発展し、大きな集落を形成し、宿屋なども設けられたのは間の宿(あいのしゅく)。杖を立ててひと休みしたのでその名が生じたといわれている。
【高札場(こうさつば)】
 幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所

【「問屋場」(といやば)】
 人馬の継立業務(幕府の公用旅行者や大名などがその宿場を利用する際 に、必要な馬や人足を用意しておき、彼らの荷物を次の宿場まで運ぶ)、飛脚業務(幕府公用の書状や品物を次の宿場に届ける)
【桝形(ますがた)】
 宿場町の枡形とは、街道を二度直角に曲げ、外敵が進入しにくいようにしたもの
【名号(みょうごう)】
 名をもって号(さけ)ぶという意味。「六字名号」・「九字名号」・「十字名号」などがある。六字名号は南無阿弥陀仏の六字
【回国六部】
日本廻国大乗妙典六十六部経聖(ひじり)。略称は六部・廻国。「法華経」66部を書写し,全国66州(壱岐国・対馬国を除く)の霊場に1部ずつ奉納する廻国の修行者,またその書写した経典。江戸時代には経典でなく納経札が奉納された。各国の一宮や国分寺に納めることが多いが,必ずしも一定せず巡路も決まっていない。六十六部に身をやつした物乞いも多く,行き倒れのあった場所には六部塚が作られた。(山川 日本史小辞典 改訂新版 )

【寒念仏】
 寒い季節に30日にわたって行われた修行で、明け方の一番寒い時間に山野に出て、ただひたすらに念仏を唱えるというものです。 もともとは僧侶の修行としては主なもののひとつでしたが、やがて仏教を信仰する在家信者の間でも広く行われるようになりました。(コトバンク)
【庚申塔】
庚申塔(こうしんとう)は、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔の。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。
庚申講は、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜,、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、それを避けるためとして庚申の日の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦や馬頭観音や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習。
庚申塔には申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫ったものが多い。仏教では青面金剛、神道では猿田彦神とされる。

庚申塔・文字塔 青面金剛像 青面金剛(左にショケラ)

猿田彦・文字塔 猿田彦神(青面金剛と同じ像)
【馬頭観音・馬頭神】
 馬頭観音(ばとうかんのん)は、頭に「馬の顔」をのせた観音。観音菩薩の変化身(へんげしん)の1つで、「六観音」の一尊。畜生類を救う観音。馬が草をむしゃむしゃと食べるように、煩悩や災いを食べつくすといわれている。
神道では馬頭神

馬頭観音文字塔・阿亀馬頭観音(おかめ)・馬の線刻・頭に馬の像・馬力神文字塔・大妻籠先の牛頭観音
【日光街道or日光道中】
 慶長5年(1600)関ケ原の合戦に勝利した徳川家康は主要五街道(東海道・中仙道・甲州海道・奥州海道・日光海道)の整備に着手。正徳6年(1761)幕府道中奉行は5街道の名称を統一。中仙道は東山道の中筋の道なので「仙」を「山」に「海道」は海端を通らない甲州・奥州・日光は「道中」に変更した。明治新政府は「道中」を「街道」と改名。
嘗て「カイドウ」は「海道」や「街道」と書かれたが江戸期は「海道」が一般的だった。


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