上州からの山旅

凡人noyamaの山旅の記録

熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く

2024年10月20日 | 街道を歩く

 京都羅城門・南宮から船で淀川を下り大阪窪津王子(八軒家浜・天満橋辺り)から陸路、九十九王子を訪ねながら紀伊路を下り紀伊田辺から中辺路を通り熊野三山に参る、後鳥羽上皇と藤原定家の熊野御幸をたどる旅

 熊野路は、浄土への道であった。熊野の神々にあこがれた人々が、たぎる信仰を胸に、山を越え、海ぞいを歩いた。それは皇族から庶民まで、中世から近代にかけて果てしなく続いた「蟻の熊野詣」であった。
 この熊野路の名を高めたものは、平安の中ごろから鎌倉後半にかけての熊野御幸だった。延喜7年(907)宇多法皇から弘安4年(1281)亀山上皇まで実に374年間にわたり、100回以上の御幸であったといわれている。
 早朝京都を出発まず淀川を船で大阪府下に下る。それから陸路南に向かい田辺、中辺路をたどって熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の順に参るのが順路である。往復の日数は20日から1カ月。一行の人 数は最大で814人、最小の時で49人、平均300人前後にのぼったといわれている。上皇、法皇は白ずくめの服装に杖という山伏に近い姿、道筋の名所に「熊野九十九王子社」と総称される休憩所がもうけられ、奉幣と経供養(般若心経などを読経する神仏混淆的)が行われ、藤原定家が同行した熊野御幸では歌会等も模様された。

 

1日目::京都羅城門~枚方船着場~八軒家浜 2024.10.17
2日目::八軒家浜~仁徳天皇陵・湊駅  2024.10.18 歩行距離24.7km
3日目::仁徳天皇陵・湊駅~石才駅  2024.10.19 歩行距離23.2km  八軒家浜から累計 47.9km
4日目::石才駅~和泉鳥取駅     2024.10.20 歩行距離19.7km  八軒家浜から累計 67.6km
5日目::和泉鳥取駅~布施屋駅    2024.11.07 歩行距離20.7km  八軒家浜から累計 88.3km
6日目::布施屋駅~海南駅      2024.11.08 歩行距離22.8km  八軒家浜から累計111.1km
7日目::海南駅~湯浅        2024.11.09 歩行距離24.4km  八軒家浜から累計135.5km
8日目::湯浅~紀伊内原駅      2024.11.10 歩行距離17.6m    八軒家浜から累計153.1km

9日目::紀伊内原駅~切目駅  2024.12.12 歩行距離27.4km  八軒家浜から累計180.5km
10日目::切目駅~紀伊田辺  2024.12.13 歩行距離23.8km  八軒家浜から累計204.3km
11日目::紀伊田辺~滝尻王子  2024.12.14 歩行距離25.2m  八軒家浜から累計229.5km

 


 



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用語等
≪熊野街道≫
*熊野街道は、渡辺津(八軒家浜)から熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣に利用された街道の総称。紀伊路とも呼ばれ、当初は、渡辺津から熊野までが一体として扱われたが、近世以後は紀伊田辺を境に紀伊路・中辺路と区分されるようになった。
 説教浄瑠璃の小栗判官にちなみ小栗街道(おぐりかいどう)とも呼ばれ、大阪市街(上町)では御祓筋(おはらいすじ)とも呼ばれる。(Wikipedia)

≪後鳥羽上皇の熊野御幸≫  
   後鳥羽上皇は建久9年(1198)から24年間の在院期間のうちに28回熊野御幸を行っており、道中のところどころの王子社などで、和歌会が催された
   建仁元年(1201)の熊野御幸では歌人の藤原定家がお供し、その様子を日記『後鳥羽院熊野御幸記』に記している。  『新古今和歌集』編纂の院宣が下されたのは、この建仁元年の熊野御幸から帰京した後のことだった。
(み熊野ネットから)

≪熊野九十九王子≫
 王子とは、熊野権現の御子神だと考えられています。
 熊野詣が一大ブームとなった院政期に、多数の王子が紀伊路・中辺路ルートに出現しました。
 それらは総称して熊野九十九王子(くまのくじゅうくおうじ)と呼ばれました。九十九というのは実際の数で はなく、「数が多い」という意味ですが、実際、最盛期には99に近い数の王子がありました。
 各王子では、奉幣(幣を奉る)と経供養(般若心経などを読む)などの儀式が行われ、里神楽や馴子舞、和歌会などの奉納が行なわれることもありました。
(み熊野ネットから)

≪五体王子≫
 九十九王子のほとんどの王子は、熊野十二所権現のうちの熊野五所王子(若一王子・禅師の宮・聖の宮・児(ちご)の宮・子守の宮)の1体を祀るものですが、5体すべてを祀るものもあり、それをとくに「五体王子」といいました。
 「五体王子」は、とくに格式が高い王子だとして崇敬されましたが、どの王子が五体王子なのかは史料により異なります。「修明門院熊野御幸記」では籾井王子(樫井王子)・藤代王子・稲葉根王子が五体王子とされ、「後鳥羽院熊野御幸記」では藤代王子のみが五体王子で、稲葉根王子は五体王子に准じるとされます。
(み熊野ネットから)
*現在五体王子は、藤代王子、切目王子、稲葉根王子、滝尻王子、発信門王子とするのが一般的。

 

参考1:歩く旅シリーズ 熊野古道を歩く 山と渓谷社
参考2:「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
参考3:藤原定家の熊野御幸(ごこう):神坂次郎著 角川ソフィア文庫
参考4:熊野まんだら街道:神坂次郎著 新潮文庫
参考5:歴史街道ウオーキングマップ::大阪府都市整備部
参考6:熊野古道紀伊路::和歌山県観光連盟
参考7:み熊野ねっと::自称「熊野の伝道者 てつ」さんのHP、熊野本宮氏子総代
参考8:Pentiumさんのヤマレコ::現存する王子だけでなく、合祀された神社や元あった場所など隈なく歩いている 

参考9:日本マンホール蓋学会::各地のマンホールについて詳述している

 



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