【京都羅城門から八軒家浜】 令和6年(2024)10月17日(木)晴
行 程:16日前橋駅22:58==(夜行バス 11200円)==6:30京都駅7:30--7:55東寺--8:15羅城門--9:40城南宮--11:20残念石---府道横大路11:50==(バス220円)==12:00(中書島駅12:13=京阪本線350円)=12:28枚方公園---12:45枚方宿鍵屋資料館・枚方船着場13:30==(遊覧船 5000円)=毛馬閘門==15:35八軒家浜船着場(天満橋)---16:10東横INN大阪谷四交差点(朝食付き5000円)
熊野への道は紀伊半島の西沿岸を大阪から紀伊路を通り紀伊田辺から熊野へ向かう中辺路、東の伊勢神宮からの伊勢路があるが、今回は平安時代から鎌倉時代にかけて花山上皇(987)から亀山上皇(1281)等が巡拝した路(京都から船で淀川を下り、大阪の窪津王子から紀伊時路を南下し、紀伊田辺から中辺路を通り熊野三山を巡拝するコース)熊野街道をたどることにした
(熊野街道は大阪から紀伊田辺までを『紀伊路』、紀伊田辺から熊野三山までの道を『中辺路』、紀伊田辺から串本を経由して熊野三山までを『大辺路』、高野山から熊野三山までを『小辺路』、そして伊勢神宮から熊野三山までの道のりが『伊勢路』と呼ばれるようになった)
【京都市】
経費及び時間節減のため夜行バスを利用し早朝京都駅に到着
平安京の入口であった羅城門へ向かう
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途中、弘法大師空海所縁の東寺で大師堂に参拝
四国霊場88か所巡りの後は、高野山と東寺へお礼参が行われている
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羅城門公園に隣接してある 矢取地蔵
空海が弓矢で撃たれたが地蔵が身代わりになり傷を負った
京都市のマンホールは、中央に京都市の市章の略章、周囲に御所車のデザイン
鴨川
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鳥羽伏見の戦い勃発の地 奥が小枝橋
城南宮に布陣していた薩摩藩が大阪から竹田街道を北上し小枝橋を渡ろうとした幕府軍を迎え撃った
城南宮跡碑(鳥羽殿跡)
鳥羽離宮は、12世紀から14世紀頃まで代々の上皇により使用されていた院御所。鳥羽殿・城南離宮とも呼ばれる。
上皇たちの熊野行幸は、陰陽師の卜占により出発の日が決められ、ここで「魚・肉・葱・韮」などを断って7日間籠ってから出発した。
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京都市伏見区 段之上会館前にある化粧地蔵尊
上州では化粧地蔵は見かけない
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鳥羽の大石
瀬戸の石切り場から淀川の水運で運ばれ二条城の城郭石材として利用される予定であった物が何らかの理由で川に沈んだものらしい。ここに鳥羽湊があった。下記の「残念石」と同様だろう
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草津みなと残念石
こちらも二条城の城郭石材として使われる予定であったもの
ここからバスで中書島駅へ
京阪電車で枚田公園駅
【枚方市(ひらかた)】
枚方市のマンホールは市の花・菊と淀川を下る30石船
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鍵屋資料館
鍵屋は、伏見と大坂を結ぶ三十石船の船待ちの宿として江戸時代に賑い、平成9年まで料亭を営んでいた。
江戸時代の様式を残す歴史的建造物で市の有形文化財に指定、平成13年7月3日に「市立枚方宿鍵屋資料館」として開館。
ここでレクチャーを受けてから船旅に出発
一本松海運 屋形船風遊覧船「えびす」で淀川下り(船首は上流を向いているので反転)
淀川の歴史や舟唄等を聞きながらのクルーズ
淀川大堤
船はここから左へ、毛馬閘門(こうもん)を通り大川(旧淀川)に入る
毛馬閘門
船が入ると閘門が閉まり、水を抜き淀川から大川の水位に1.5m程下がる(潮位により変る)
15分ほどで前方の門が開き進むことができる(パナマ運河と同じ仕組み)
前方の細いビルがあべのハルカス?
水深を確保する目的もあり川砂を採取して建築資材等に利用されている
関東では川砂や川砂利の採取はかなり規制されているが、河床低下等の心配は無いのだろうか?
川沿いの桜並木の向こうに大阪城が見える
このクルーズ船は、春3~5月と秋10月に運行される。桜の時季にも乗船してみたいものだ
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熊野街道(熊野古道)陸の起点
熊野参詣陸の起点となる
九十九王子の第一社窪津王子(渡辺王子・大江王子ともいう)は、近くの坐間神社行宮にあったとされている
本日はここまでで、宿に向かう
関西地方の名称は馴染みも無く読み方が難しく、年のせいか覚えも悪い
枚方市(ヒラカタシ)は何度見てもマイカタシと読んでしまう
古都京都から商人の町大阪への行程は見所も多く通り過ぎるのがもったいない
京都は平安時代や明治維新、大阪では秀吉の時代の物を多く感じることができた
1日に歩ける距離は時速3kmで20km余り
熊野までは何日かかるか解りませんがこれからの行程が楽しみな今日この頃であります
地図
用 語 等
≪熊野街道≫
*熊野街道は、渡辺津(八軒家浜)から熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣に利用された街道の総称。紀伊路とも呼ばれ、当初は、渡辺津から熊野までが一体として扱われたが、近世以後は紀伊田辺を境に紀伊路・中辺路と区分されるようになった。
説教浄瑠璃の小栗判官にちなみ小栗街道(おぐりかいどう)とも呼ばれ、大阪市街(上町)では御祓筋(おはらいすじ)とも呼ばれる。(Wikipedia)
≪後鳥羽上皇の熊野御幸≫
後鳥羽上皇は建久9年(1198)から24年間の在院期間のうちに28回熊野御幸を行っており、道中のところどころの王子社などで、和歌会が催された
建仁元年(1201)の熊野御幸では歌人の藤原定家がお供し、その様子を日記『後鳥羽院熊野御幸記』に記している。 『新古今和歌集』編纂の院宣が下されたのは、この建仁元年の熊野御幸から帰京した後のことだった。
(み熊野ネットから)
≪熊野九十九王子≫
王子とは、熊野権現の御子神だと考えられています。
熊野詣が一大ブームとなった院政期に、多数の王子が紀伊路・中辺路ルートに出現しました。
それらは総称して熊野九十九王子(くまのくじゅうくおうじ)と呼ばれました。九十九というのは実際の数で はなく、「数が多い」という意味ですが、実際、最盛期には99に近い数の王子がありました。
各王子では、奉幣(幣を奉る)と経供養(般若心経などを読む)などの儀式が行われ、里神楽や馴子舞、和歌会などの奉納が行なわれることもありました。
(み熊野ネットから)
≪五体王子≫
九十九王子のほとんどの王子は、熊野十二所権現のうちの熊野五所王子(若一王子・禅師の宮・聖の宮・児(ちご)の宮・子守の宮)の1体を祀るものですが、5体すべてを祀るものもあり、それをとくに「五体王子」といいました。
「五体王子」は、とくに格式が高い王子だとして崇敬されましたが、どの王子が五体王子なのかは史料により異なります。「修明門院熊野御幸記」では籾井王子(樫井王子)・藤代王子・稲葉根王子が五体王子とされ、「後鳥羽院熊野御幸記」では藤代王子のみが五体王子で、稲葉根王子は五体王子に准じるとされます。
(み熊野ネットから)
*異説五体王子:藤代皇子、切目王子、稲葉根王子、滝尻王子、発信門王子
参考1:歩く旅シリーズ 熊野古道を歩く 山と渓谷社
参考2:み熊野ねっと:自称「熊野の伝道者 てつ」さんのHP、熊野本宮氏子総代
参考3:歴史街道ウオーキングマップ::大阪府都市整備部
参考4:熊野古道紀伊路::和歌山県観光連盟
参考5:Kansai Odyssey:誰も知らない観光地をテーマに関西を冒険する日本人の夫とアメリカ人の妻のブログ
参考6:「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
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