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令和6年(2025)2月15日(金)晴れ、16日(土)晴れ
【行 程】
15日 宿 07:04 - 07:25 大斎原 07:36 - 07:45 大日越え入口 - 07:55 備崎橋 08:05 - 08:40 請川 - 08:46 小雲取越登山口(請川) 09:00 - 10:11 松畑茶屋跡 - 10:23 万歳道分岐 10:32 - 11:18 万才峠 11:19 - 11:29 林道出合い 11:35 - 12:02 磨崖 12:03 - 12:21 志古川橋 - 12:32 志古川1号橋 - 12:37 瀞峡めぐりの里(志古バス停)13:45==(熊野御坊南海バス1,010円)==14:20神倉バス停 - 14:27 神倉神社登り口 - 14:40 神倉神社 14:55 - 15:08 神倉神社登り口 15:13 - 15:58 熊野速玉大社 16:09 - 16:40 阿須賀王子跡 16:58 - 17:12 新宮駅 17:22 - 17:49 ゲストハウス蒼 素泊3,600円
歩行距離 本宮~志古バス停 14.4km 登り690m 下り740m 、 神倉バス停~宿8.0km 登り90m 下り90m
本宮に挨拶して出発
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大斎原(おおゆのはら)の大鳥居
平成12年(2000)に完成(高さ約34m、幅約42m)日本一の大きさ
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神が舞い降りたという大斎原(熊野三所権現は本宮大湯原イチイの木に三枚の月となって現た)
熊野本宮大社はかつて、熊野川・音無川・岩田川の合流点にある中洲にあったが明治22年(1889年)の水害で社殿の多くは流された。水害を免れた上四社を現在の熊野本宮大社がある場所に遷座、流失した中四社・下四社を石造の小祠に合祀した。
当時、約1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台など、現在の8倍の規模であった。
一遍上人名号碑
*一遍上人は熊野本宮で、阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受ける。この時から一遍と称し成道(じょうどう。悟りを開くこと)の年とし、開宗の年としている。
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潜水橋と音無川
嘗ては「高橋」という太鼓橋が架かっていたが明治22年の大洪水で流失
中世には橋は無く参詣者は音無川を草鞋を濡らして徒渉して水で身を清めて神域に入った。これを「濡藁沓(ぬれわろうず)の入堂」と言った。
熊野御幸は本宮から熊野川を船で下り新宮へ行った。
現在も本宮から20km程下流の「道の駅瀞峡街道熊野川」から新宮まで舟が出ているが12月から2月まで休みのため、志古まで小雲取越-万才峠-伊勢路-志古と歩き、志古からバスで新宮に向かう
備崎橋(そなえさき)
大峰奥駆道への分岐、左の山脈が大峰山脈
おっと、小雲取越への分岐を200m程通り過ごしてしまったので戻る
山道だが標識はしっかりしている
「関東ベー」には珍しく思える羊歯の道を歩く
一度国道に降りる
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請川 国道168号線下地橋バス停付近
41「請川」のスタンプを23「湯の峰王子」のページに押してしまった
熊野川上流を望む、橋は先ほどの備崎橋
民家の中の急階段を上がる
道は整備されているが急こう配
道標49辺りで緩やかに
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松畑茶屋跡
万才(ばんせ)峠分岐
真っ直ぐ進めば小雲取越の道、左は万才峠を越えて志古への伊勢路
万才峠へはここを下がり再び登る
あまり通らないのか荒れ気味の道
バイカオウレンがあちこちに咲いている
寒波が来て寒いが春は近い様だ
イズセンリョウ 花は4月頃咲く様だ
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万才(ばんせ)峠(番西峠) 標高414.7m
これより志古に下り、熊野川を渡って伊勢に至る道
石垣が交互に組まれており関所か集落があったのだろうか?
林道に出ると、伐開地が広がる
九十九折れの林道をショートカット
摩崖「一遍上人名号碑」
この地方にはあちこちに日本ミツバチの円筒形の巣箱が置いてある
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瀞峡めぐりの里熊野川
ここから国特別名勝瀞峡(どろきょう)へジェット船が出ているが12~2月は休み
バスを待つ間に昼食をいただく
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運行本数は少ない
神倉神社参道(男坂)
登れども着かない自然石を組み合わせて積み重ねた「鎌倉積み」の急峻な石段
538段と書かれたものもあるが数えようによっては数段違うようなきがする
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神倉神社は熊野速玉大社の飛地境内摂社、速玉神社の本宮とも言われている
神社の上にある岩がゴトビキ岩(ヒキガエル岩)
神倉神社からは新宮市街および熊野灘が一望できる
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妙心寺
神倉神社の本地仏である愛染明王を祀る尼寺。無住で、熊野速玉大社が管理
中世末から近世所期にかけて、熊野比丘尼らを配下にもつ寺院として栄えた。
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日蓮宗恵雲山本廣寺 新宮城主水野家菩提寺
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熊野速玉大社
熊野速玉大神・熊野結大神が主神
速玉が男神で、結が女神
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御神木梛(なぎ)
推定樹齢1000年。梛としては日本最大。国の天然記念物
葉が広いが裸子植物のマキ科ナギ属の常緑高木の針葉樹
平安末期に熊野三山造営奉行を務めた平重盛(清盛の嫡男)の手植えと伝えられている
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新宮城址(丹鶴城)
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阿須賀神社(あすか)
阿須賀神社は熊野発祥の地とも言われている
* 熊野権現は唐の天台山から飛行し、九州の彦山に降臨した。それから、四国の石槌山、淡路の諭鶴羽(ゆずるは)山と巡り、紀伊国牟婁郡の切部山、そして新宮神倉山を経て、新宮東の阿須賀社の北の石淵谷に遷り、初めて結速玉家津御子と申した。その後、本宮大湯原イチイの木に三枚の月となって現れ、これを、熊野部千代定という猟師が発見して祀った。これが熊野坐神社の三所権現である。(み熊野ねっと)
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新宮市立歴史民俗資料館(阿須賀神社境内にある資料館)
阿須賀神社境内の発掘調査により弥生時代の竪穴式住居趾や土器類などが出土、それらを展示している
資料館の前では阿須賀神社境内から出土した竪穴式住居跡を再現
懸仏(かけぼとけ)は主祭神の本地仏、大威徳明王(だいいとくみょうおう)
ここで時間切れとなり、市内の中華料理店で夕食
八宝菜とチャーハン
和歌山に来てからどこの店でも料理の味が薄い気がする
やはり関東に比べ薄味なのだろうか??
16日 宿 06:59 - 07:18 新宮駅 - 07:44 浜王子 07:46 - 08:31 高野坂入口 08:42 - 09:55 三輪崎駅10:22==(JR190円==10:29新宮駅--和歌山ラーメン速水--新宮駅12:45==19:44前橋駅 JR新宮~前橋14,800円
歩行距離 7.4km 登り70m 下り70m
宿泊した「ゲストハウス蒼」民家を改造し1棟貸
オーナーと顔を合わせるこも味気ない気もするが
このタイプの宿が増えているようだが、気を使うことも無くこれはこれで便利だ
昨日苦労して登った神倉神社が朝日に浮かぶ
新宮駅前を通り
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徐福公園前
中辺路ルートへ戻る
道路に指導票がある
標高3.6m
雨水排水のマンホールのデザインはハマユウ
上州では見ない海辺の鳥 イソヒヨドリ
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97 浜王子
明治12年(1879年)に阿須賀神社に合祀されが、大正15年(1926年)に復社
南方熊楠等の努力により、1920年(大正9年)、貴族院で「神社合祀無益」と決議された
王子ケ浜の海岸を歩く
海岸近くを走るJR東海の特急南紀
鉄道を潜ると
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高野坂登り口
比較的なだらかな登り、広葉樹林は明るく歩きやすい
御手洗の念仏碑
真ん中が地蔵、左右の二体は「南無阿弥陀仏」の六字名号
寿門山の五輪塔 寛永5年(1628)建立
街道をそれた崖渕にあり林の向こうに海が良く見える、鯨が来るのを見ていた場所かな?
孫八地蔵
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金光稲荷神社
燈篭に蠟燭が燈っており地元の人が毎朝掃除しているようだ
近くにベンチもおいてあり親切
何時ごろのものか解らないが、見事な石畳
高野坂三輪崎口
三輪崎の海岸
三輪崎駅
今回はここまで、三輪崎駅から新宮駅まで電車で戻る
新宮市内で和歌山ラーメンをいただき
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特急南紀6号で帰路へ
電化区間ではなく、2023年導入のハイブリット車
後鳥羽上皇と藤原定家の熊野御幸をたどる旅
3泊4日を繰り返すこと4回目で通算16日になりました
まだ、新宮から那智大社そして本宮へ戻るコースがのこっています
本宮から京都への帰り道は省略しようとおもいますが
今回、熊野川下りが出来なかったのでそれも次回の計画に組み入れたいところであります
街道を歩くたびに日本の中世史を学びなおしたく
「新 もういちど読む 山川日本史」なる本を読み返す今日この頃であります
↓そんな訳で 押していただくとたすかります
参考1:歩く旅シリーズ 熊野古道を歩く 山と渓谷社
参考2:「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
参考3:藤原定家の熊野御幸(ごこう):神坂次郎著 角川ソフィア文庫
参考4:熊野まんだら街道:神坂次郎著 新潮文庫
参考5:み熊野ねっと
参考6:ウオーカーステイションTV
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