上州からの山旅

凡人noyamaの山旅の記録

奥州道中を歩く その4(芦野宿・白坂宿・白河宿)

2024年06月10日 | 街道を歩く




【4日目 下野國 栃木県】 令和6年(2024)6月8日(土)晴

歩行距離:芦野宿~白河駅 23.6km 
行  程:自宅4:10==7:00新白河駅西口前P(500円)・新白河駅7:40=(240円)=7:53黒田原駅8:10=-(関東バス440円)=8:20芦野仲町8:25---9:02板谷の一里塚--10:10泉田の一里塚--11:06国境14:31白河駅14:53=(福島交通バス210円)=15:03新白河駅=白河の関跡=18:30自宅


 最終目的地最寄りの白河駅付近の駐車場を探すも見当たらず、新白河駅西口の駐車場に車を止め
 黒田原駅まで行き、関東自動車(関東バス)で芦野宿へ



【芦野宿】


町営無料駐車場前がバス停「芦野仲町」
ここが本日の起点、同じバスにもう一人乗っていたがやはり街道歩きの様だ
声を掛けようと思ったがこちらの倍近いスピードで歩いて行った



本陣跡の現「ストーンプラザ」(地元産の芦野石を中心とした石関連の美術館)は工事中




角に延宝八年(1680)建立の庚申塔


桝形の先に、桝形方向を映した昭和49年撮影の写真が掲げてある



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芦野宿を外れ奈良川手前に大きな座り地蔵「新町地蔵」享保2年(1717)がある
「芦野宿の北口にあり、種々の災厄を自分たちの生活の域内に入れない役目もあったと思われる」



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芦野宿を出、田園地帯を歩く
「この辺りは黒羽藩の領地で、肥沃で良質な米の産地であった」



石仏石塔群
弘化三年(1846)建立の十九夜塔、大黒天、文化三年(1806)建立の二十三夜、出羽三山碑「羽黒山大神 月山大神 湯殿山大神」



愛宕神社
何段あるか分からない急階段があり登拝は遠慮させてもらった



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べこ石の碑
「この碑は嘉永10年(1848)10月に芦野宿の問屋をつとめた戸村右内忠怒が撰文建立したもので、全文19段、約3,500の文字を刻した碑文である。
 長文で孝行の大切さと善行をすすめ、堕胎の戒めと生命の尊重など実例や例えを用いながら儒教的精神を中心とした人の道を優しく教えている。」



田の中の路傍にひっそりとある「無縁諸霊浮」 と刻まれた石柱、行き倒れた旅人の碑か?



峯岸館従軍之碑と峯岸館従軍者之碑
「戊辰戦役に黒羽藩は官軍として参戦し、農民は峯岸館で洋式の軍事訓練を受け、各地に転戦し戦功を挙げ、これを顕彰したもの」



所々、国道を外れ静かな旧道に入る



安永2年(1773)の地蔵菩薩坐像・弘化4年(1847)の光明真言五百万遍塔
光明真言:大日如来への祈りの真言



奈良川を下川原橋で渡ってのどかな旧道を歩く



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板谷の一里塚  江戸日本橋から44里目   9:02 本日の起点から2.5km
道路改修で掘り下げられ塚は両サイドの上の方にある



石仏石塔群
一里塚の先に明治11年(1878)の生馬大神、寛政8年(1769)の馬頭観音、享保16年(1731)の大乗妙典六十六部供養塔などが建っており、前と同じ一里塚の解説版もある



馬頭観音4基 比較的新しい明治以降のもの
道が下がっているので街道脇にあった石仏は今は上方に見える



谷あいに田圃が広がるのどかな風景



嘉永二年(1849)建立の馬頭観世音大黒天



真言宗医王山高徳寺



馬頭観音群



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脇沢の地蔵様と五輪塔
文化3年(1806)の馬頭観音、文久3年(1863)の念佛供養塔、享保16年(1731)の観音菩薩など



石材店の石灯籠脇が旧道



田圃の中にある「べこ石」



鳥の形にカットされた街路樹を通る



六地蔵・馬頭観音・狛犬 
神社入口に無造作に並べられている



間の宿寄居の江戸口に地蔵菩薩坐像(明和8年(1771))と如意輪観音(明和9年(1772))



湯殿山常夜燈 天保十二年(1841)建立



間の宿寄居の街並み



真言宗智山派の抜苦山補陀洛院與楽寺
天文15年(1564)開創されたと言われている



寄居宿問屋茶屋本陣
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問屋場跡 茶屋本陣跡



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泉田の一里塚跡 江戸日本橋から45里目の一里塚跡  10:10  起点から7.0km



道路改修で集められた石仏、並べられている順番に意味があるのだろうか
馬頭観世音、馬頭大神、足尾山石塔「従是江戸四十五里五丁」、佛供養塔、地蔵立像、如意輪観音像、二十三夜塔、庚申塔


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後ろに怪我をしているが伏せっていた



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初花清水
歌舞伎 「箱根霊験いざり仇討」 の主人公棚倉藩士飯沼勝五郎は兄を滝口上野に殺され、同じく上野を父の仇としていた初花と夫婦となった。仇を探し求めているうちに足を病んだ勝五郎は村人に助けられ、崖の隙間から清水が流れ出るこの地に小屋を建て療養につとめた。初花は毎朝この清水で化粧を行った


瓢石(ふくべいし)と瓢石道標( 勝五郎旧跡初花清水従是二丁) 馬頭観音
勝五郎は療養の傍ら、手慰みに道の面や崖の岩肌に文様のように瓢石を刻んだ。
無事、本懐を遂げた二人の墓は東海道箱根路東坂の鎖雲寺にある。



旅の途中で亡くなった人を弔う無縁供養塔馬頭観世音



立派な鈴木家屋敷内にある明治天皇山中御小休所碑
明治十四年(1881)山形秋田両県及び北海道巡幸の際、往復の二度当家にて休息した。



峠にある大きな馬頭観世音(安政六年(1859))



明神の地蔵様 享保14年(1729)
延享3年(1746)の如意輪観音、宝暦14年(1764)の光明真言三百万遍供養塔など
国道を切り下げたため、旧道は崖上にあり石仏も見上げる位置にある



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県境(武蔵國と陸奥國の國境) 国境を示す石碑がある
手前に玉津島神社


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堺の明神 玉津島明神(武蔵側)


 
【陸奥國 福島県】 11:06 起点より10.6km


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堺の明神 住吉明神(陸奥側)
玉津島明神(女神・衣通姫:そとおりひめ)と住吉明神(男神・中筒男命:なかつつおのみこと)は、国境の神・和歌の神として知られ、女神は内(国を守る)、男神は外(外敵を防ぐ)という信仰に基づき祀られている。このため、陸奥・下野ともに自らの側を「玉津島を祀る」とし、反対側の明神を「住吉明神を祀る」としている。



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衣がえの清水
「更衣清水」 とも呼ばれ、弘法大師がこの清水で身を清め衣替えをしたと言われる。一説には弘法大師が持っていた杖を刺すと清水が湧き出たとも伝えられている



白河市のマンホール 白河市の木・アカマツ、市の花・ウメ、市の鳥・ホオジロのデザイン
真ん中は「白」をもじった市章




【白坂宿】 11:30 起点より11.6km


白坂宿 木戸跡(江戸口)



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大垣藩士戦死之跡碑
戊辰戦役で大垣藩士酒井元之丞重寛の戦死場所に建てられた碑である。明治39年(1906)に妹により建立された。墓は別に観音寺にある。



宿内の各戸に屋号を示す石碑がある



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白坂宿脇本陣跡 屋号岩井屋 戸上家
大正6年東北本線白坂駅が開業すると駅前に移住し今は田圃



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白坂宿本陣跡 屋号河内屋 白坂家
明治9年火災により本陣焼失、明治12年屋敷半分を寄付し小学校に後に残り半分も寄付、昭和12年まで小学校であった



旅籠亀屋跡
門柱に 「亀山」、屋号碑に「亀屋」 を掲げている



街並み 桝形?



天台宗白坂山観音寺 応永十五年(1408)の創建


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観音寺前に明治6年ごろの白坂宿図がある



白坂宿 北口木戸跡



国道295号線を歩く、歩道あり
「皮籠(かわご)」の読み方はバス停に書いてあった
奥州平泉の藤原秀衡に使え京都との砂金交易に努めた金売吉次が砂金を入れた「皮籠」が地名の由来



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吉次八幡
源義経は平泉に下る手引きをした金売吉次への恩から吉次兄弟を殺した盗賊を討ち果たし、吉次兄弟の霊を弔い合祀したことから 「吉次八幡」 と呼ばれた



地蔵尊坐像 享保十八年(1733)



一里談溜池と馬頭観音
一里段の地名は、皮籠の一里塚に由来するもので、江戸日本橋から数えて47里目の一里塚があったところ



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南無妙法蓮華経題目碑  (左面)願以此功徳普及於一切  寛政5年(1793)
首切り塚と呼ばれる皮籠の刑場跡といわれている



手打ちラーメン朝日食堂
2021年11月東北の山旅途中で寄った店だ
お昼時で混雑、先を急ぐのでパス



先のミニストップでメロンソーダとサンドイッチで昼食




【白河宿着】13:00 17.0km


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白河宿江戸口 会津藩戦死墓



白河市マンホール
日本最古の南湖公園と小峰城のデザイン



白河宿街並み



金刀比羅神社



谷津田川(やんたがわ)を南湖橋で渡る



天保元年(1830)創業の味噌醤油醸造店の藤屋
現在は記念館になている



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白河城下六曲 角に白河石を敷き詰めた「月よみの庭」



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大木家住宅 歴史風致形成建造物指定
天保年間 薬種屋として創業


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松河屋建造物群 歴史風致形成建造物指定
明治期に味噌・醤油醸造所として創業


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松井薬局建造物群 歴史風致形成建造物指定
江戸末期松井薬局として創業



白河城下六曲 宿内に大きな曲がりが6か所ある



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大谷家住宅 歴史的風致形成建造物
明治後期に味噌醸造店として創業し、昭和52年頃まで営業していた



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中町小路楽蔵(らくら)
公衆便所がある休みどころ
敷地内には戊辰戦役白河口の戦いの史料を展示する白河戊辰見聞館がある



白河城下六曲


白河城下六曲



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脇本陣柳屋跡
明治天皇白河行在所跡・白河宿脇本陣柳屋旅館跡



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本陣芳賀家跡



街並み



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白河城下六曲 と 四辻道標 
道標「せんだい あいづ でハ(出羽) ゑちご(えちご)」、「右 日光 江戸/左 たなくら いハき 水戸」



津島神社


田町解説版
「北側を流れる阿武隈川と接するのが田町です。江戸時代中頃まで、阿武隈川は歩いて渡っており、橋が初めて作られたのは元禄2年(1689)のことと伝わります。」



阿武隈川に架かる田町大橋


上流側に国道294号線の新しい橋が架かっている



臨済宗妙心寺派高岳山聯芳寺(れんぽうじ)



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仙臺藩士戊辰戦歿之碑
戊辰戦争で白河周辺で戦死した仙台藩士百五十名余を葬った墓。
明治二十三年(1890)旧仙台藩主伊達宗基(むねもと)が建立した



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女石追分   14:10 起点より21.5km
右は仙台松前道、左は会津街道
奥州街道終点
奥州道中は宇都宮から青森の三厩に至る街道だが、道中奉行が管理した奥州道中は白河まで二十一里十八町十四間半(約84.5km)




白河駅着 14:53  起点より23.6km
白河駅から福島交通バスで新白河駅へ 




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帰りに白河の関址に寄った
「白河の関」は江戸時代以前の東山道の関所で奥州街道の関所ではない







奥州街道大田原宿以北の宿は鉄道駅から遠く、コンビニや食堂も少ない
この間40km余りをどう歩くかが考えさせられたる現代の難所でした
江戸時代の人は1日で歩き切る距離ですが
時速3kmのゆるいペースなので日帰り2日でと刻んで歩きました
旧道が残っている所はのどかな田園風景が広がり気持ちの良いコース
しかし街道歩きは日陰は少ないので夏場はかなりきついものとなりそうです
中山道・日光道中・奥州道中と歩き残りの5街道は甲州道中・東海道
夏季は山歩きに復帰し、秋以降に取り組もうと思う今日この頃であります

 ↓そんな訳で 押していただくとたすかります







 地図


参考1:「ちゃんと歩ける日光街道・奥州街道」 八木牧夫著 山と渓谷社
参考2:五街道ウオーク:上記本の著者八木牧夫さんのホームページ
参考3:電子足跡:GPSログがとても参考になります
参考4:きままに歩く現地解説版など詳細な写真が豊富
参考5:街道歩き旅
参考6:「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
参考7:レファレンス協同データベース(レファ協)国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築している、レファレンス(調べものの相談)のデータベース



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