![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/d9/9545590c81e694313662fe24691908a4.jpg)
甲宗八幡(こうそうはちまん)神社(北九州市門司区)をフォトギャラリー(福岡)に掲載しました。
当社はJR鹿児島線の起点の門司港駅から門司港レトロを過ぎて関門橋のたもとの和布刈神社に向かう途中の筆立山の麓に鎮座されています。
甲宗八幡神社
【鎮座地】〒801-0854 福岡県北九州市門司区旧門司1丁目7-18
【御祭神】應神天皇 神功皇后 市寸嶋比賣命 多紀理比賣命 多紀津比賣命
(配祀)品陀和氣命 息長帶比賣命 綿都美命 櫛名田比賣命 須佐之男命
天之忍穗耳命 天之菩卑命 天津日子根命 活津日子根命 熊野久須毘命
(合祀)事代主神 高淤加美神 闇淤加美神 彌都波能賣神 大山津見神 武内宿禰
大國主神 伊邪那岐神 伊邪那美神 仁徳天皇
【御由緒】
清和天皇の貞観2年(皇紀1520年西暦860年)大宰大弍清原真人岑成、勅命により、西門鎮護の要津門司の霊峰筆立山麓の地を卜して宇佐神宮の御分霊を祀り、神功皇后御着用の御甲を御神霊(御神体)に奉じて当社を創建す。故に甲宗八幡と称し奉る。
ーーー中略
昭和32年特に別表神社に昇格、同33年の大祀には50年に1回と定められたる御神体拝観の儀ありたり。
(境内入口の案内石碑より抜粋)
石段の参道![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/e6/109b72039697e019d7fc46417d2651c6.jpg)
源平の戦いの後、源範頼・義経兄弟が戦いで荒れた社殿を再建した。また境内に平家の総大将平知盛の墓があり、源氏、平家ともにゆかりの社です。参道左手に源義経、右手に平知盛ののぼりがあります。
境内入口の鳥居から社殿
手水舎と拝殿
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/df/97dface581ec910d4d244fdb94631a05.jpg)
御神体は神功皇后が三韓を征した時に着用されたと伝えられる甲(鉄一枚張十一間筋伏空洞星冑)です、このことから社号を甲宗八幡と称します。50年に一度公開され、前回は昭和33年ですから次回の公開は平成20年、2年後が楽しみです。
神社には珍しい型式の左右の楼門
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/59/6ec90057f98d985ebc3f4d73a1441b39.jpg)
平知盛の墓![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/7b/3cc896548a939788c62cfd158ef4d0df.jpg)
伝 平知盛の墓
(向かって左---墓 向かって右---供養塔)
この石塔は平知盛(1152~1185)の墓として甲宗八幡神社に伝わるものです。
知盛は平清盛の四男で、勇猛果敢な武将として能「船弁慶」などの芸能にも取り上げられております。父清盛亡き後、平家の総帥となった兄宗盛を補佐し、平家一門の統率的存在となり、寿永三年(1184年)、所領の彦島に本拠地を置き、古城山山頂に門司城を築いて戦に備え、翌年の壇の浦の戦い(1185年3月24日)では田野浦に兵を集め、万珠・千珠島付近に布陣する源氏を攻めますが、義経戦略の前に武運なく敗れ、安徳天皇をはじめ平家一門の最後を見届けると「見るべき程の事は見つ(見るべきものはすべて見た)」と潔く入水してその一生を終えました。墓は甲宗八幡神社が鎮座する筆立山山中にありましたが、昭和28年の門司の大水害により流れ、拝殿裏に傾いたままの状態にありましたので、ここに再祀しております。
(案内板より)
当社はJR鹿児島線の起点の門司港駅から門司港レトロを過ぎて関門橋のたもとの和布刈神社に向かう途中の筆立山の麓に鎮座されています。
甲宗八幡神社
【鎮座地】〒801-0854 福岡県北九州市門司区旧門司1丁目7-18
【御祭神】應神天皇 神功皇后 市寸嶋比賣命 多紀理比賣命 多紀津比賣命
(配祀)品陀和氣命 息長帶比賣命 綿都美命 櫛名田比賣命 須佐之男命
天之忍穗耳命 天之菩卑命 天津日子根命 活津日子根命 熊野久須毘命
(合祀)事代主神 高淤加美神 闇淤加美神 彌都波能賣神 大山津見神 武内宿禰
大國主神 伊邪那岐神 伊邪那美神 仁徳天皇
【御由緒】
清和天皇の貞観2年(皇紀1520年西暦860年)大宰大弍清原真人岑成、勅命により、西門鎮護の要津門司の霊峰筆立山麓の地を卜して宇佐神宮の御分霊を祀り、神功皇后御着用の御甲を御神霊(御神体)に奉じて当社を創建す。故に甲宗八幡と称し奉る。
ーーー中略
昭和32年特に別表神社に昇格、同33年の大祀には50年に1回と定められたる御神体拝観の儀ありたり。
(境内入口の案内石碑より抜粋)
石段の参道
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/e6/109b72039697e019d7fc46417d2651c6.jpg)
源平の戦いの後、源範頼・義経兄弟が戦いで荒れた社殿を再建した。また境内に平家の総大将平知盛の墓があり、源氏、平家ともにゆかりの社です。参道左手に源義経、右手に平知盛ののぼりがあります。
境内入口の鳥居から社殿
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/3f/2aadb2015fc46b07e8dcab627964b964.jpg)
手水舎と拝殿
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/ea/f4a6fee7ca38d471d0a4fbd72b4337b3.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/df/97dface581ec910d4d244fdb94631a05.jpg)
御神体は神功皇后が三韓を征した時に着用されたと伝えられる甲(鉄一枚張十一間筋伏空洞星冑)です、このことから社号を甲宗八幡と称します。50年に一度公開され、前回は昭和33年ですから次回の公開は平成20年、2年後が楽しみです。
神社には珍しい型式の左右の楼門
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/33/559bda622db0701e1c5a5cd4f09074fe.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/59/6ec90057f98d985ebc3f4d73a1441b39.jpg)
平知盛の墓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/7b/3cc896548a939788c62cfd158ef4d0df.jpg)
伝 平知盛の墓
(向かって左---墓 向かって右---供養塔)
この石塔は平知盛(1152~1185)の墓として甲宗八幡神社に伝わるものです。
知盛は平清盛の四男で、勇猛果敢な武将として能「船弁慶」などの芸能にも取り上げられております。父清盛亡き後、平家の総帥となった兄宗盛を補佐し、平家一門の統率的存在となり、寿永三年(1184年)、所領の彦島に本拠地を置き、古城山山頂に門司城を築いて戦に備え、翌年の壇の浦の戦い(1185年3月24日)では田野浦に兵を集め、万珠・千珠島付近に布陣する源氏を攻めますが、義経戦略の前に武運なく敗れ、安徳天皇をはじめ平家一門の最後を見届けると「見るべき程の事は見つ(見るべきものはすべて見た)」と潔く入水してその一生を終えました。墓は甲宗八幡神社が鎮座する筆立山山中にありましたが、昭和28年の門司の大水害により流れ、拝殿裏に傾いたままの状態にありましたので、ここに再祀しております。
(案内板より)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます