父親、もしくは、母親が子どもを虐待し出したら、
もう一方の親は、暴走を止めていいのです。
ただ、こんな場合、よく聞かれる、
夫婦が違う対応をしたら子どもが混乱する――という考えに
一理ありそうです。
気になりますね。
実は、介護の現場でも同じような言い回しが流布してます。
たとえば、施設において、多数の職員に混じって
一人だけ違う考えで行動すれば、利用者が混乱する云々。
しかし、その一人のみが好ましい介護をしている、ということがままあります。
そんな場合、更生すべきは、多数者である職員です。
親の場合も同じように言えます。
夫婦という二つの車輪があり、そのワッカの大きさが余りに異なれば、
小さな輪は、回転を止め、軸になります。
そして、大きな輪がその外側をぐるぐる回るだけでしょう。
そうなると、子どもは前に進めなくなります。
それでいいか・・・
答えは出ていると思います。
子どもを苛め、卑しめる連れ合いに従順である必要はないのです。
むしろ、抵抗できないほど凶暴な相手なら、縁切りすべきではないでしょうか。
決して、旦那に従う「良妻」を演じてはならないと考えます。
あるいは、物分かりのいい「良人」を演じてはならないでしょう。
不幸にして、何が一体、子どもの利益なのかが見えない、と言うのであれば
子どもに選択を任せるのも手です。
その際は、子どもが虐待を阻止するため、何をすべきかを教えてくれます。
子どもにそんな力はないって?
いや、案外にありますよ。
賭けて見る価値あり、というのが僕の見解です。
なぜって、無力でいるようでいて、
子どもといえど、命を抱え込んだ主体だからです。
自然な防衛本能を宿していると考えていいでしょう。
ところで、最近、
「代理によるほら吹き男爵症候群」(医学的には代理ミュンヒハウゼン症候群――
Munchausen syndrome by proxy――と言うようです。略語としては、MSBP)
という言葉を知りました
(obichanさんのブログ参照)。
母親が育児自慢を、子どもを犠牲にする形で発信する虐待なようです。
この病の本質的な罪深さは、
子どもが親の加害に気づいていない点です。
こういう特殊な場合を除けば、
虐待ありや否やの判断を子どもに委ねるのが
理想と思います。
ところで、ここまで来て困った問題に直面します。
虐待されている子どもに限って、親の悪を秘してしまうのです。
その壁をどう突破するのかが、今問われている気がします。
親が演出する「慈愛」に対し、
自分の「出来の悪さ」を口にする子ども。
やりきれないですね。
子どもを犠牲にしてまで満足しようとする
抑圧された親の功名心に救い難いものを感じます。
もう一方の親は、暴走を止めていいのです。
ただ、こんな場合、よく聞かれる、
夫婦が違う対応をしたら子どもが混乱する――という考えに
一理ありそうです。
気になりますね。
実は、介護の現場でも同じような言い回しが流布してます。
たとえば、施設において、多数の職員に混じって
一人だけ違う考えで行動すれば、利用者が混乱する云々。
しかし、その一人のみが好ましい介護をしている、ということがままあります。
そんな場合、更生すべきは、多数者である職員です。
親の場合も同じように言えます。
夫婦という二つの車輪があり、そのワッカの大きさが余りに異なれば、
小さな輪は、回転を止め、軸になります。
そして、大きな輪がその外側をぐるぐる回るだけでしょう。
そうなると、子どもは前に進めなくなります。
それでいいか・・・
答えは出ていると思います。
子どもを苛め、卑しめる連れ合いに従順である必要はないのです。
むしろ、抵抗できないほど凶暴な相手なら、縁切りすべきではないでしょうか。
決して、旦那に従う「良妻」を演じてはならないと考えます。
あるいは、物分かりのいい「良人」を演じてはならないでしょう。
不幸にして、何が一体、子どもの利益なのかが見えない、と言うのであれば
子どもに選択を任せるのも手です。
その際は、子どもが虐待を阻止するため、何をすべきかを教えてくれます。
子どもにそんな力はないって?
いや、案外にありますよ。
賭けて見る価値あり、というのが僕の見解です。
なぜって、無力でいるようでいて、
子どもといえど、命を抱え込んだ主体だからです。
自然な防衛本能を宿していると考えていいでしょう。
ところで、最近、
「代理によるほら吹き男爵症候群」(医学的には代理ミュンヒハウゼン症候群――
Munchausen syndrome by proxy――と言うようです。略語としては、MSBP)
という言葉を知りました
(obichanさんのブログ参照)。
母親が育児自慢を、子どもを犠牲にする形で発信する虐待なようです。
この病の本質的な罪深さは、
子どもが親の加害に気づいていない点です。
こういう特殊な場合を除けば、
虐待ありや否やの判断を子どもに委ねるのが
理想と思います。
ところで、ここまで来て困った問題に直面します。
虐待されている子どもに限って、親の悪を秘してしまうのです。
その壁をどう突破するのかが、今問われている気がします。
親が演出する「慈愛」に対し、
自分の「出来の悪さ」を口にする子ども。
やりきれないですね。
子どもを犠牲にしてまで満足しようとする
抑圧された親の功名心に救い難いものを感じます。
夫婦で育児方針で衝突したことが1回だけあったなぁ。
あとは日常で気を付けているのは、片方が叱っているとき、もう片方は子どもの逃げ場所になってやること。
代理…のことも、一時興味を持って調べたことあります。
息子の誕生日に、気が引き締まる(笑)記事、ありがとうございました。
11歳におなりなのですね。
おめでとうございます。
ツイッタ―でお祝いの言葉を述べると、
SNSのホームに表示されるでしょ。
あれがどうもこっ恥ずかしいので
知らぬ半兵衛を決め込んでました。
さて、片方が叱っているとき、もう片方が逃げ場所になることが
夫婦で了解されているという関係がいいですね。
他の家庭にも、その考えが広まることを祈ります。
おバカな私も2児の母親ですもの。
忠太さんと、トッペイさんの記事は違うけど、親として考えさせられるものは同じだなあと思いながら読ませてもらいましたよ。
子供も一個人の人格を持っています。
いくら私と娘が似てるといって、やはり人格は違います。
娘は娘の考えで行動してほしいと願いますが、
現実に我が家はこの問題に直面しています。
考えさせられることですが、本当に受験時になると、難しいものがありますね。。。。
だとすると、 今、踏ん張ってもらいたい大切な時期ですね。
大変でしょうけど、力になってあげて下さい。
コメント、ありがとうございました。
父親と母親に挟まれる子どもの
悩みを聞くことが多いです。
あっけらかんとしてる子ほど
表に出さないで苦しんでることが多くて
聞き出すことが難しくて
それをうまくできない
自分にもどかしさを
覚えます。
忠太さんのブログにヒントが見えたので
明日実践してみます。