女性に対する誉め言葉として
「器量よし」という表現があります。
容姿端麗の意味です。
男性に対しては
「器が大きい」という言い方が
その人の度量の大きさを示す表現として
やはり誉め言葉というのが普通の理解でしょう。
広辞苑などの辞書にもそのような説明がなされていると思います。
しかし、この「器」という語句、
本当に誉め言葉として、
素直に受け取って喜ぶべき語なのでしょうか。
器が如何に立派でも中に何も入っていなければ、意味ないでしょう。
「池袋母子餓死事件」というショッキングな出来事が昔、ありました。
正確には池袋で起きた、
1996年4月27日に発見された母と子の餓死事件です。
この事件のニュースに接したとき、
「お茶碗が新聞紙に包んで大事に保管されてあった」
という新聞の記述に、胸が締め付けられる思いがしました。
(母親の日記が残されています。
右、文字列にリンクさせてありますから、よければ、ご参照ください。
→日記)
「器量よし」だとか「器が大きい」だのと聞くと、
いつもこの事件を思い出し、
えっ?
という思いにとらわれます。
孔子は、この「器」についてどう言っているのでしょう。
子(し)曰(いわ)く、
君子(くんし)は器(き)ならず。[為政]
と、にべもないです。
君子(紳士・淑女)として生きたいのであれば、
「器量」を云々(うんぬん)されなさんなよ、ということです。
現代は、競争社会です。
みんながみんな、他者より秀でようとします。
一技一能を磨くことに全てを捧げかねないほどです。
孔子に言わせれば、
そんな能力、美点は、人に使われる道なのですね。
論語は、帝王学と言われる所以(ゆえん)ではありますが、
君子たるもの、人を使えと言います。
そこに至る過程として、
器でなくなりなさいということが
メッセージとして、
上の短い文章に込められています。
荻生徂徠(おぎゅうそらい)という人がこれに関連して、
「器(うつわ)なる人は必ず器を用いずして自ら用いるに至る」
と述べています。
現代語訳すると、
(器の大小にかかわらず)
器であるにとどまっている人というのは、
他人を役立たせず、自分を役立たせてしまうものだ、ということです。
何だか味わい深いと思いません?
では、器でなくなるには何をすればいいのでしょう。
一言で言うなら、「仁」(じん)の実践ということになりましょうか。
周りを見渡して、
「偉い人であるのか、鈍い人であるのか、ちょっと分からない」
という人がいませんか。
そのような人が仁の実践者であるようですよ。
「器量よし」という表現があります。
容姿端麗の意味です。
男性に対しては
「器が大きい」という言い方が
その人の度量の大きさを示す表現として
やはり誉め言葉というのが普通の理解でしょう。
広辞苑などの辞書にもそのような説明がなされていると思います。
しかし、この「器」という語句、
本当に誉め言葉として、
素直に受け取って喜ぶべき語なのでしょうか。
器が如何に立派でも中に何も入っていなければ、意味ないでしょう。
「池袋母子餓死事件」というショッキングな出来事が昔、ありました。
正確には池袋で起きた、
1996年4月27日に発見された母と子の餓死事件です。
この事件のニュースに接したとき、
「お茶碗が新聞紙に包んで大事に保管されてあった」
という新聞の記述に、胸が締め付けられる思いがしました。
(母親の日記が残されています。
右、文字列にリンクさせてありますから、よければ、ご参照ください。
→日記)
「器量よし」だとか「器が大きい」だのと聞くと、
いつもこの事件を思い出し、
えっ?
という思いにとらわれます。
孔子は、この「器」についてどう言っているのでしょう。
子(し)曰(いわ)く、
君子(くんし)は器(き)ならず。[為政]
と、にべもないです。
君子(紳士・淑女)として生きたいのであれば、
「器量」を云々(うんぬん)されなさんなよ、ということです。
現代は、競争社会です。
みんながみんな、他者より秀でようとします。
一技一能を磨くことに全てを捧げかねないほどです。
孔子に言わせれば、
そんな能力、美点は、人に使われる道なのですね。
論語は、帝王学と言われる所以(ゆえん)ではありますが、
君子たるもの、人を使えと言います。
そこに至る過程として、
器でなくなりなさいということが
メッセージとして、
上の短い文章に込められています。
荻生徂徠(おぎゅうそらい)という人がこれに関連して、
「器(うつわ)なる人は必ず器を用いずして自ら用いるに至る」
と述べています。
現代語訳すると、
(器の大小にかかわらず)
器であるにとどまっている人というのは、
他人を役立たせず、自分を役立たせてしまうものだ、ということです。
何だか味わい深いと思いません?
では、器でなくなるには何をすればいいのでしょう。
一言で言うなら、「仁」(じん)の実践ということになりましょうか。
周りを見渡して、
「偉い人であるのか、鈍い人であるのか、ちょっと分からない」
という人がいませんか。
そのような人が仁の実践者であるようですよ。
池袋の母子餓死事件については、マンガで読んだことがありましたが、淡々とつづられている日記を読みながら、同じく胸が締め付けられる思いがしました。
器ではなく、器を使う人間であれ、ということですね。
実にふかーいです。
是非、器の大きいうちのアッパ君にしてあげたい話だ(笑)
読み逃げ歓迎、福の神です。
ありがたいこってす!
これ、本心です。
訪問して頂けただけで感謝、感謝です。
ところで、男は本能みたいなものとして、
大っきくありたい〈そう思われたい)欲求を抱えているようですね。
仲間内でも自分の奥さんに対しても・・・
その証拠にね、
このブログ記事で紹介した漢文ね、
学校では絶対に教えさせないと思います。
「父さんは、器が大きいんだ」
と威張ってたい男性が沢山いるからです。
たとえば、○×ができる、できないとかを自分が決定したいのですね。
子供みたいですが、
孔子の指摘していることは、
筋が通っている分、
旦那さんのプライドを傷つけるでしょう、
もちろん、言い方もあるでしょうが。
それを考えると、
言わない方が賢いような気がします。
ただ、人の家庭のことは、
よく分からないということがあります。
もし、喧嘩してもすぐ仲直りできるようなら
言っていいかもですね。
私はこの時間帯のラジオって淋しくなって、胸キュンとしちゃうけど 夫は聞きながら寝付く
なぜかこのトーンを抑えた話し声、ちょっとした話しの間、曲調でとてもせつなくなるの
で、本題に入ります
忠太さんのブログは、はまると胸にズキンと来ます
本当はコメントを入れたいけど
受け止めるのが精いっぱいで、自分の中で反芻して楽しませて?頂いてます
アハハ
私って怒った と気が付くのも1日後になる
とりあえず受け止めてから・・ですかね エヘヘ
周りでは動きが早い、住みにくい世の中です
マイペースで たまにはシャキッとしてみたい
ですか。嬉しいことを言って下さる。φ(..)メモメモ
人の言葉を受け止めるって大切ですね。これがきちんとできれば、争いのかなりの部分が解決すると思います。
ただ、受け止めるって、意外と難しくて、顔や腹で受け止めてしまうという場合も多々あるようです。
鏡を観てから
(おい、おい、顔が腫れてるやん)という発見は、極力したくないものです。
でも、まぁ、罪の意識で苦しむよりはましかもね、とか何とか言いながら、その内、しゃきっとする・・・その内、しゃきっとする・・・というのは、僕にとっても自分に言い聞かせている言葉です。早いとこ、現実のものにしたいです。お互いがんばりましょうねい。