のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

日本を売った男たち

2013年03月30日 23時07分24秒 | Weblog

棺桶に

片足突っ込んでいる

人間であるけれど、

と前置きして

日本への思いから

経済学者の宇沢弘文東京大学名誉教授が

ティム・ワイナ―著「CIA秘録」(文藝春秋 2008年刊) 

という書物に

触れられているテーマ、

すなわち、1945年8月、

日本の無条件降伏に始まったパックス・アメリカ-ナ

の実態を

「普天間基地問題から何が見えてきたか」(岩波書店)

という書物において

語られます

(わらびジャーナルの記事、

「『内なる敵』のスパイが暗躍していた戦後日本」(2012年09月24日)参照)。

☆ 記事URL:http://warabij.ti-da.net/c162011.html

 【日本占領とCIA】

 「敗戦後の日本で最初にマッカサ-総司令部のスパイとなったのは、戦時中、帝国陸軍参謀本部第二部長として諜報責任者のポストにあった陸軍少将有末精三である。1945年7月、日本軍の降伏を目の前にして、戦争犯罪人として処刑されることを怖れた有末はそれ(引用者注:日本軍の行跡を記した極秘資料)をGHQの諜報関係の責任者チャ-ルズ・ウイロビ-少将に差し出し、その秘密工作員となることを申し出た。

 ウイロビ-の指示に基づいて、有末は、参謀次長の陸軍中将河辺虎四郎を中心とする帝国陸軍の高級指揮官から構成されるスパイ・チ-ムを編成し、積極的な諜報活動に従事することになった。有末の工作員として活躍したのが児玉誉士夫であった。児玉は戦時中、占領下の中国を舞台に数千人の工作員を使って、戦略物資からアヘンにいたるまで、日本軍が必要とするありとあらゆるものを買い付け、盗みとった。----敗戦後間もなく、児玉はA級戦犯として、巣鴨刑務所に収監された。」

 「1948年12月23日、東條英機を始めとする7名のA級戦犯の絞首刑が執行された、その翌日、岸信介と児玉誉士夫の二人は巣鴨刑務所から釈放された。東條内閣の重要な閣僚として、また「満州国」の経営に中心的な役割を果たした岸信介と昭和の極悪人ともいうべき児玉誉士夫の釈放が、当時の日本国家の官僚に与えた衝撃は大きかった」

 釈放された岸はすぐその足で、官房長官をしていた弟の佐藤栄作に会うために首相官邸を訪れた。佐藤は用意した背広を岸に渡して、囚人服を着替えさせた。そのとき、岸が言った言葉がCIAの記録に残されている。「いまやわれわれはみんな民主主義だ」。


〔岸はこれ以降、CIAのスパイとして日本をアメリカに売る政治家の道を歩む〕
 

 それから、CIAの積極的な援助の下に、自由民主党の党首となり、首相になり、その後半世紀も続く政権政党を築きあげ、日本をアメリカの植民地化にするために狂奔した。その過程におけるもっとも象徴的な事件が、日米安全保障条約の締結である。


 【アメリカの日本占領の基本政策】

 アメリカの日本占領は、きびいしい、しばしば恣意的な公職追放によって、国家官僚を徹底的に脅し、かれらの多くをパックス・アメリカ-ナの忠実な僕とすることに成功した。その遺伝子は、戦後65年を経た今もなお日本の政治・行政に拭うことのできない汚点として残っている。

 アメリカの日本占領の基本政策には、二つの原則があった。第一は、アメリカの自動車産業が、自らの利益は無視して、対日戦争の遂行に全力を尽くして協力したという名目をつくって、日本占領とともに、日本をアメリカの自動車産業に提供することであった。

 そのために、日本中の主な都市を、ナパ-ム焼夷弾を効果的に使って、徹底的に破壊した。広い道路を中心とした町をつくり、自動車の普及のために有利になる条件をつくり出すことが可能になるようにした、同時に、日本人の心を砕いて、有史以来聖なるものとして大事に守られてきた山、森、川、海を壊して、工業化と自動車道路の建設を理性的限界を超えて推し進めることを可能にしたのである。


 占領当初は、重工業、とくに自動車の生産を禁ずる規制が設けられていたが、朝鮮戦争の勃発とともに、その規制は取り払われた。

 第二は、日本の農業が、当時余剰農産物に苦しんでいたアメリカの農業と競合しないように、選択制農業を日本に強要した。
 日米安全保障条約の重要な目的であった。現在の日本の農業が置かれている苦悩に充ちた状況を作り出す決定的な要因となったものである。

以上


下の動画は、

2010年3月20日に法政大学で行われた

宇沢弘文氏の講演です。

「CIA秘録」の話が出てきます。

シンポジウム 普天間 いま日本の選択を考える 前半(3/10)


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