「緊急時、あなたは大丈夫?」
と題して、
前記事で性格診断問題を作りました。
goo友のbaniramamaさんが「(1)を選んだよ~」
と気さくに返答下さいました。
回答欄には
「問題を一人で抱え込んでしまってませんか。
助けを求めるのは、
決して恥ずかしいことではありません」なんて書いてあるのにね。
思うんですけど、
緊急時には
SOSの信号を発する、
それから、返信欄に書いた通り
抱え込んだ荷物を捨てる英断が必要です。
ただ、そうなる船出の前、平時は、
何もしなくていいのかと言うと、
そんなことはないでしょう。
荷物を抱え込み過ぎないよう工夫すべきです。
具体的には、身に余る仕事がきたとき、
「No」と言えねばなりません。
しかし、日本人は、このNOが苦手という人が多いのでないでしょうか。
何年か前、「Noと言えない日本人」という本がよく売れ、
話題になったことがありますね。
こんなタイトルの本が売れ筋になるのは、
Noと言える人がそれだけ少ないからでしょう。
今はどうかというと、
Noと言えさえすればいいんだというような
単純なものではない点に思いが至り、
反省中というところでしょうか。
Noと言ったがために、
単に一つの取引が壊れるだけでなく、
取り返しのつかない影響を信頼関係に与えます。
関係そのものが破綻する、
つまり、決裂してしまうわけです。
だから・・・反省!
しかし、そこにとどまるなら、
Noと言えないままです。
なぜこんな一からやり直しみたいな結果になるのでしょう。
日本にはまだ充分に、
自己主張の文化が育ってないからでしょうか。
「出る杭は打たれる」で、
みんなと違う意見・考えが敬遠される
土壌ががっちりとあります。
そんな中で
異を唱えるのは、大変な勇気がいるわけです。
実際、昨今「空気を読め」
なんて言葉を衒いもなく若者が発する文化に
慄然とします。
ちなみに、
昨年の9月5日、毎日新聞の日曜版に
次のような記事が
診療内科医の海原純子氏のコラムに載ってました。
同氏にはバイリンガルの友人がいらっしゃって、
その方が言うには、
「日本語の自己主張にあたる英単語“assertive"(アサ-ティブ)は、
他者を押しのけるニューアンスより
『自分の考えをきちんと述べる』とのニューアンスが強い」
と指摘されるそうです。
assertiveは、形容詞です。
動詞形のassertの語源を調べると、
元はラテン語、
As+serereに分解されるとありました。
前段のAsは、現代英語のAsと同じに考えていいでしょう。
後段のserereは、意味としては結合です。
二つ合わさって、「つかむ」とか
「・・・の所有を宣言する」とかいう脈絡で
この単語が使われるようになった、ようです。
後者の意味合いでは、
何しろ宣言です。その対象は、所有ですからね、
他人の実効支配を排除します。
当然、「他者を押しのける」結果になりはしないか、
と思います。
しかし、単語の使われ方としては、宣言に重きが置かれる
ということなんでしょうか。
そう言えば、フランス人権宣言でも
「人は生まれながらに平等であって」云々の
前置きの後に
享有する権利のメニューが示されます。
とても説明的なわけです。
日本人が世界に通用するような
プレゼンテーションが必要なときには
人権宣言をイメージしてやるとうまく行くかも、です。
海原氏は、
バイリンガルの友人が
日本語の自己主張と英単語“assertive"の違いを
指摘する話に続けて、
その友人が考えた
アサーティブになる方法を紹介されています。
その内容は、
日本人が問題を一人で抱え込まないため
「No!」と言えるようになる秘訣と思えました。
それを書きたいのですが、
また記事が長くなり過ぎますので、
項を改めることにします。
と題して、
前記事で性格診断問題を作りました。
goo友のbaniramamaさんが「(1)を選んだよ~」
と気さくに返答下さいました。
回答欄には
「問題を一人で抱え込んでしまってませんか。
助けを求めるのは、
決して恥ずかしいことではありません」なんて書いてあるのにね。
思うんですけど、
緊急時には
SOSの信号を発する、
それから、返信欄に書いた通り
抱え込んだ荷物を捨てる英断が必要です。
ただ、そうなる船出の前、平時は、
何もしなくていいのかと言うと、
そんなことはないでしょう。
荷物を抱え込み過ぎないよう工夫すべきです。
具体的には、身に余る仕事がきたとき、
「No」と言えねばなりません。
しかし、日本人は、このNOが苦手という人が多いのでないでしょうか。
何年か前、「Noと言えない日本人」という本がよく売れ、
話題になったことがありますね。
こんなタイトルの本が売れ筋になるのは、
Noと言える人がそれだけ少ないからでしょう。
今はどうかというと、
Noと言えさえすればいいんだというような
単純なものではない点に思いが至り、
反省中というところでしょうか。
Noと言ったがために、
単に一つの取引が壊れるだけでなく、
取り返しのつかない影響を信頼関係に与えます。
関係そのものが破綻する、
つまり、決裂してしまうわけです。
だから・・・反省!
しかし、そこにとどまるなら、
Noと言えないままです。
なぜこんな一からやり直しみたいな結果になるのでしょう。
日本にはまだ充分に、
自己主張の文化が育ってないからでしょうか。
「出る杭は打たれる」で、
みんなと違う意見・考えが敬遠される
土壌ががっちりとあります。
そんな中で
異を唱えるのは、大変な勇気がいるわけです。
実際、昨今「空気を読め」
なんて言葉を衒いもなく若者が発する文化に
慄然とします。
ちなみに、
昨年の9月5日、毎日新聞の日曜版に
次のような記事が
診療内科医の海原純子氏のコラムに載ってました。
同氏にはバイリンガルの友人がいらっしゃって、
その方が言うには、
「日本語の自己主張にあたる英単語“assertive"(アサ-ティブ)は、
他者を押しのけるニューアンスより
『自分の考えをきちんと述べる』とのニューアンスが強い」
と指摘されるそうです。
assertiveは、形容詞です。
動詞形のassertの語源を調べると、
元はラテン語、
As+serereに分解されるとありました。
前段のAsは、現代英語のAsと同じに考えていいでしょう。
後段のserereは、意味としては結合です。
二つ合わさって、「つかむ」とか
「・・・の所有を宣言する」とかいう脈絡で
この単語が使われるようになった、ようです。
後者の意味合いでは、
何しろ宣言です。その対象は、所有ですからね、
他人の実効支配を排除します。
当然、「他者を押しのける」結果になりはしないか、
と思います。
しかし、単語の使われ方としては、宣言に重きが置かれる
ということなんでしょうか。
そう言えば、フランス人権宣言でも
「人は生まれながらに平等であって」云々の
前置きの後に
享有する権利のメニューが示されます。
とても説明的なわけです。
日本人が世界に通用するような
プレゼンテーションが必要なときには
人権宣言をイメージしてやるとうまく行くかも、です。
海原氏は、
バイリンガルの友人が
日本語の自己主張と英単語“assertive"の違いを
指摘する話に続けて、
その友人が考えた
アサーティブになる方法を紹介されています。
その内容は、
日本人が問題を一人で抱え込まないため
「No!」と言えるようになる秘訣と思えました。
それを書きたいのですが、
また記事が長くなり過ぎますので、
項を改めることにします。
こうして断られたら嫌だろうな
自分が言われたらイヤだもの
とかしがらみの方まで考えて断れません
足を骨折したため、最近リハビリをしている
今迄夫が変わりにやってくれていたこともそろそろ自分に引き渡しが来た
夫「自分でやる?」
私「自分でやんない」
夫にはこうして言えるのに アハハ
当面、リハビリをがんばってください。こちらは、拒絶しない方がいいです。