PPKオーナーの奮闘コーナー

写真付きで日記や奮闘の様子をお知らせします。

「分相応」

2010-11-28 18:34:29 | リラックス
母の死を体験して感じた事。

それは10月に母の容態が芳しくなく施設の方から病院に運ばれた所から、終末のおおずめの状態が始まっていたのだと思いました。

この時母はまだ自分で起きたり食べたり出来ていたのですが、院長からは容態は安定していますが何時突然に悪くなるかは解りませんので心得ておいて下さいと伝えられた時に「今年一杯はもたないだろうな」と覚悟を決めていました。

奥さんにもそんな事を話したら「縁起でも無い事言わないで」と言われてしまいました。
でも二人で心ずもりはしておかないとね・・・と思わず意見が合いました。

10月の入院中に施設の方から荷物を取りに来て頂けると助かりますと連絡が入り、翌定休日に息子と奥さんで運んで来てくれました、これで元気になり又施設に戻ることは無いのかなと考える一瞬でした。

そんな時の2日程あとに今週退院になりますのでお出で下さいと連絡が入り、施設の方に行きますと約10年近くいたベットとは違うお部屋の違う配置のベットでしたが、母はあまりよく解らなかったのか当たりを見回していました、私は病院から頂いて来たダンボール箱一杯のお薬を担当の職員さんに手渡しながら「お薬がご飯みたいですけど宜しくおねがいします」と言うと「解っておりますから大丈夫ですよ」と言って頂き安心しました。

そしてしばらくの間母は何とかトイレには自力で行く事が出来る程度までは維持していたようです。
11月に入って2回目の月曜日に私は少し風邪気味で家で休養していた時、奥さんと娘と息子で母の洗濯物
を届けに行って何とか話をして来たようでした。
その日の夕食を済ませて夜寝る寸前の11時30分ごろ施設から電話があり、「これからお母さんを救急車で
病院に運びますので病院の方に直行して下さい」と言われ、奥さんと一目散に病院へ駆けつけました。

食事を全く受け付けなくなり色んな数値が急激に悪くなってきたという事でした。

この日から母はなくなる16日までの8日間何も食べることなく点滴だけで生きていました、幸いに病院に駆けつけた時は心肺停止した直後でしたので私が確認して死亡とさせて頂きました。

私が手を握りながら家族に連絡指示をして、まだ全く生きている状態の体温から徐々に・徐々に冷えていく体温を感じながら神様に感謝の気持ちで一杯になりました、よくぞ苦しむ事も無くろうそくが独りでに消え去って行くがごとく、母の命を燃え尽させて頂いてこれ程の喜びはありません。

86歳と361日のなが~い人生の終わりのたった2週間自力で動けなくなり・喋れなくなりしただけで元気な終焉でした。


「神様からの贈り物」

亡くなる約10年程前にアルツハイマーになり施設にお世話になるように成ったのですが、今思い返せば正にこの時から母の人生は最高に輝いて幸せな状態を味わい続けられたのだと思います。

痴呆になり過去の大方を忘れてしまい、毎日暗い辛い顔して何時も拳を握り締めていた母が、見た事も無い笑顔で毎日ニコニコしながらサッササッサと歩いて 「ありがとう・・ありがとう・・」 と言いながら施設中に笑顔を広めていると、職員さんからも 「その笑顔で癒されるー」 と良くして頂いていました。

この光景を私が目にした時「晴天の霹靂」かと思い我が目を疑いました、握り締めていた70数年の想いを手離してみたらその手の平に神様がとてつもない贈り物を下さったのです。

自分の年も誕生日も解らないが、自由に歩けて美味しく食べられてまわりから可愛い可愛いと良くして頂く、今のことは解るが先週から49年前までが全く記憶にない、が50年前と今日がぴったり合わさってしまう、でも幸せな気持ちで一杯になるのでついつい 「ありがとう」 と言ってしまう。

毎年お正月は施設から家に帰ってきて過ごしていたのですが、大きくなった孫達が呆ける前の母はあまり好きじゃ無かったようですがこのころはにこにこして「ありがとうありがとう」と言うので「ば~ちゃんかわいい」と言い出しました。

元気な頃はあれはだめ!これはだめ!とげんこをしたり、孫が大きくなってきて言う事を聞かなくなってくると暴力で押さえ込もうとしていたようでした、私には面倒をよく見てくれているばーちゃんが暴力をふるって「恐い」とは言えず子供同士で力を合わせて我慢したり逃げ切ったりしていた様でした。

それだけに母が別人になり、人格まで変わってしまったのではと感じた事でしょう、こういうば~ちゃん大好き!と口を揃えて言っていました。
やっと生まれた時から面倒を見続けて20数年4人の孫達から「可愛いば~ちゃん」と愛おしまれるようになったのです。

施設の中で食べる心配も無い・危ない所も無い・健康も何時も見守ってくれる・仲間も沢山いていつも話せる・こんな生活を10年もさせて頂いたのです、私は感謝の気持ちが一杯になりこんな良くして頂いた事に何かお礼をしたいそんな事からこの施設への福祉美容の出張を始めさせて頂きました。


「母の経緯については」

生前の母の人生は明治・大正生まれの方の多くがそうであったと思うのですが 「忍耐」 の連続で我慢強い人達、そんな表現がぴったりだと思います。

22・3歳の年頃に好きな人が出来て妊娠したのですが、親の猛反対で子供は里子に出され自分も離れた旅館に女中として出されてしまう、3年程して旅の人を好きになり結婚して私を産む直前に長野の田舎から北海道の親戚の所に行く旅行中秋田県の花輪まちの旅館で旦那さんが失踪してしまい、その泊まっていた温泉旅館に頼み込み住み込みで働きながら私を産んだと聞いています。

それから私が3歳4歳と成る頃そこの旅館の一つ違いのお子さんと良く喧嘩になり、私をいつも叱り続けるのが忍びないと、実家に相談し私は母の姉の家で従兄弟達と一緒に暮らすことになり、一年に一回秋田県から長野県に会いに来ると言う生活が続きました。

そんな母は頼れるのは慕っていた姉とお金だけだったと思います。
私が高校を卒業して東京に就職した時、母親としての実感が持てないから東京で一緒に暮らさないかい? と投げかけたら20数年働いた秋田の山奥の温泉旅館から来ると言い東京で親子で暮らしてみました。

良く東京に来ると言ったなーとその時の母の私への想いが大きい事を感じましたが、子供はそんなに感じなくても大人に成ると大変な辛さになるのだなーと言う事は20年程経ってから実感するようになりました。

それから独身の間は一緒に暮らし結婚して子供ができるよになるまでは別々で、子供が出来たら同居で面倒を見てもらうという約束でいたのですが結婚して1年経たないうちに長女が出来すぐに一緒に住むようになりました。

私が独身の時は横浜で一緒に暮らし、長女が生まれてからは東京の国分寺の一軒家で一緒に暮らしました。でも子供は保育園に入れていたので母はすぐに働きに出ました、自分がどこかに勤めるとかして常に収入の口を作っておかないと落ち着かなかったようにあります。後で笑い話にはなったのですが、母が自転車を押して府中街道を西国分寺の駅の職場に行くまでに縁石でこけてしまい膝のお皿を割ってしまい、そのまま勤めに出て家に帰って来てたところに私が夜遅く帰宅して「足が痛い!」というので夜間の府中救急病院に連れて行ったら先生に「あなたは息子さんでしょう・・・お母さんをこんなに成るまでどうしてほっといたんですか」と言われて、今知ったのですと言いました。
母にどうして休まなかったのかと言ったら「朝の出勤時間になって急に言ったら会社が困るだろう・・」でした。
それにしても膝の皿を割って4キロも自転車を押して駅の立ち食いおそばやさんで8時間働いて又自転車を4キロ押して帰ってくるなんて現代人は考えないと思うのですが、なんせ大正生まれということと「何かにとりつかれている」としか言い様がありません。

悲しいかな人生で頼れるのは人ではなくお金だったようです。必要以上に自分以外の人に尽くし職場では誰にも負けないぐらいの労働量をこなし己に厳しく生きて何とか社会の中で存在する事を、許し乞うているようにしか見えなくて私にはとても悲しく感じた時期がありました。

12年住んだ東京から郷土の長野に引っ越した時は別居でそれぞれの孫の面倒を見るという事に成りましたが、この時も勤めに出て雪の中でも自転車を押していく姿を孫達も鮮明に覚えている様でした。

私の人生に変革期がありその後宮崎で住む事になったのですがその時も母と孫と一緒に暮らしたのですが母は又勤めに出ていました、その後私が再婚して孫が生まれた時は家で内職を始めました。私が貧乏人の子沢山ということもあり家計を助けてくれたのでしょうが働く事を止める事はありませんでした。

その後マイホームを立て又子供が生まれましたがやはり母は勤めに出ていました、いろいろあり孫の保育園の直ぐ横のマンションで一人暮らしをすることに成りましたが孫の保育園が終わるまでは勤め続け70代半ばになって勤め先が無くなり母の勤労人生は終了したのでした。

でも心落ち着かないのか孫のいない時にお酒を飲むようになりアルツハイマーに直進して倒れたのでした。
少しして母の異変に気づき病院に運び込み容態が落ち着いて施設に入れるようになったのでした。


「分相応なお葬式と分相応な終焉」

私は母の死で今までに無いほど母と向き合ってみました。

元気でいたり、死なんて考えもしないころはやはり適当に親をあしらっていたように思いました。
人との関係が人生の中で一番大切な事だと気づきだした50代であっても親の事は居て当たり前でそれ以上の想いを寄せた事も無く、何とあさはかだったかと己を恥じ入りました。

死亡を確認してから数時間の内に次にどう対処するか決めなければなりません。
あらかじめ準備してあったり、申し合わせてある場合ならスムーズに事が運ぶのでしょうが突然の場合は専門の葬儀屋さんにお任せして取り仕切ってもらう事が一般的だと思います。

私は自分中心に生きて来てしまい母の目線で亡くなるまでの人生の想いを辿った事がありませんでしたので、母の温もりがある内に 「本当はどうして欲しいのかい?」と問い続けてみました。

葬儀は一般的に亡くなった方を偲んでと行われますが、実際は残された家族のメンツというか体裁で行われて居る事が多いような気がしていつも「腑に落ちない」想いをしておりました。
又慣れない事なので葬儀屋さんに任せっきりになり、故人の意思とか故人の人生にふさわしい終末のありかたを叶える時間と余裕と想いが間に合わない事がごく普通ではないでしょうか?

私は妻と年内は持たないな!と心づもりした時から母の人生にふさわしい葬儀は無いものかと、色々調べていました。
実際私の経営者団体の仲間の社長に(お葬儀屋さん)に相談に乗ってもらいました、残念ながら社長は出張中で専門の担当者から丁寧にご説明頂きましたが、通常のお話はしていただくのですが私の想いは汲み取って頂けなかった事は残念でした。

母はあまり多くの人と仲間に成るのではなく、限られた人とだけの付き合いが多かったので私と暮らしだしてからの約40年間でも指折り数えられる程度でしたし、母の親戚は遠く長野でしかも健在でいる方は数人になり、父方の親族とは全く交流が無く母が亡くなっても他人事だと思います。

私はそんな母の思いを考えると本当に身近に居た家族だけでしっかりと受け止めて送ってやることが、一番嬉しいんだろうなと感じ取り、私の仕事上の関係者や、商店街関連でお世話になっている多くの方、そして妻の田舎の望大な親族にも連絡せずにおき、良く知っていて心の通じ合える一握りの人に看取られる事が母にとって 「分相応」 で心安らかにあの世に渡れるのではないかと考えていました。

そんな事もあり病院のベットで冷たくなっていく母の横で、家で家族だけでしてくれる葬儀屋さんに電話して何とか間に合わせることができました、親族の数が少ない分一人一人がず~と母と一緒にいて語る時間が長く充実した時間を持てたような気がしました。

家ではお坊さんも呼ぶ事もしませんでしたが、家族全員が般若心経を唱えて母を弔いました、何回も何回も私の先導で般若心経を唱えたのですが私は自分で写経していたもの、家族は印刷された物を見て唱えていました。
この時から二日後の火葬場に行くまでに計何回唱えられたのかはよく解りませんが小さな小さな家族の想いが凝縮されたお別れを各自が出来たものと私は信じております。

お骨になった母が家に帰って来て自分の部屋の仏壇に写真と共に安置されて一番落ち着いたのではないでしょうか?
この後普通では49日までにお墓に納骨をするのでしょうが、お墓もお寺も持たない我が家では納骨ができません。
私は妻に最初に相談し、家族にも 「散骨」 の提案をしました。
母が若くて一番自由に過ごせ約20年安らいで暮らしていた秋田県の湯瀬温泉の川に家族全員で行って 「散骨」 してはどうだろうかと・・・ それが母が一番寛げるのでは・・ 散骨のほんの一部は家の仏壇に置き皆で何時でも供養出来るのではと。

家族が皆了解をしてくれました。
これが母に合った人生の終焉のかたちだと私は確信しています。
お墓があってもまったく参りにも来ないで荒れ果てるより、早く宇宙に戻れて何時も家族とコンタクト出来る事が母にできる最後の親孝行の様な気がしています。









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