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清志郎 二人のお父さん

2009-06-07 15:49:57 | 忌野 清志郎

昨日の記事の続きです。

1995年7月31日 朝日新聞コラム『おやじの背中』より

<引用>

おれ、おやじが二人いる。
生んでくれた父親と、育ててくれた父親。
三つの時に実母が死んで、実母の姉夫婦の養子になった。
育ててくれたのは、おじさんにあたる人だけど、 おれにとってはおやじなんです。
ギターを弾き出したのが、中学生のころ。
すぐに、ロックバンドを組んだ。
高校の時、レコード会社が主催していたコンクールで三位になって、
高三でデビューした。
デビューはしたんだけど、しばらく全然売れなくて、
たまに、ライブの仕事が入るくらいだった。
高校はあまり休まず行っていたよ。
高校を卒業した時に、おやじに「自立する」とか言って家を出た。
だけど、すぐに食えなくなって、家に戻った。
その後も家を出ては、金がなくなると帰ってくるみたいな生活をしていた。
そのうちに、おふくろが病気になって入院した。
六年間寝たきりで死んだんです。
家の中は、おやじとおれだけになって、男二人だから、だんだん、汚くなるわけ。
バンドの連中も金がなかったから、一緒に寝泊まりするようになって、
ますます、家は汚くなっていった。
おやじは、全然平気な顔をしていたな。
東京ガスを退職してからのおやじは、
おふくろを病院に見舞いに行くのが生きがいみたいになっていた。
おやじは「まじめな会社員」という男だったけど、
バンドの連中とも、結構、話が合ったりしてね。
老いたおやじと長髪のむさくるしい男たちが同居していて、
なんか、むちゃくちゃでおもしろかったな。
 実父は再婚したあと、時々おれの様子を見に来ていた。
 おれは養子だなと、何となく気づき始めたのは、小学生のころかな。
大きくなって、戸籍かなんか見た時に確信した。
二つ下の弟は、実父が育てた。
二十歳の時、谷川岳で雪崩に遭って 死んだ。
結局、兄と弟という形で話すことはないままだった。
そういうことを、おれは淡々と受け入れてきた気がする。
おやじが死んだ時、親類のおばさんが、生みの母親の荷物をくれた。
中に実母が歌っているレコードがあってね。
歌手でも何でもなかったんだけど、
「カラスの赤ちゃん」とか「アリラン」とか歌っていた。
実母の声ってこんなだったのか、と思った。
おやじはレコードのことを知っていたのかな、と思う。
高校を出て、食えないままロックバンドをやっていた時も、
あんまり文句を言わなかったのは、
歌が好きだった実母のことがあるのかもしれないなと、今は思ったりする。

<引用終わり>

感想や思いを殆ど書かず、事実のみを淡々と、修辞のない簡潔な文章で綴っています。
しかし、この短いコラムの中に、深い思いを感じ取れます。
登場するのは、清志郎と養父、実父、養母、実母、弟、親戚のおばさん、バンド仲間。
その登場人物の中で、この時点で既にいないのは、養父、養母、実母、弟。
この人たちに対する清志郎の思いが、切なく伝わります。

そして 清志郎も  いなくなった   ね

まだ信じられないけど。

コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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2009-06-08 00:17:31
またまたこんにちは。
すごくいい文章。っていうか、かなしい。
弟さん亡くなってたんですか
なんかショックです。
いつも可愛らしいハッピーな
雰囲気の方だったから余計・・。

どんな過去のある方だったのか
なにもわからないまま黙って亡くなった
って感じですね・・
返信する
こんにちは (貝さま←ち)
2009-06-08 17:46:31
再びコメント有難うございます。
そうらしいです。
亡くなった時点では、実弟ではなく、従兄弟という立場だったんでしょうね。
それも、実のお父さんは再婚されていたので、いくらか疎遠であったことが想像されます。

>そういうことを、おれは淡々と受け入れてきた気がする。

自伝、半生記などを書かず、清志郎は、音楽で表現し続けたってことでしょうか。
でも、清志郎の書く詩や文章も、私はとても好きです^^
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