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風化してはいけない多治見市長選挙
全世帯に市長側とされる人物たちによってばら撒かれた荒唐無稽の誹謗中傷ビラが選挙の当落に大きく影響を及ぼしたことは周知の事実。これは市長選挙において多治見市のシステムが内奥に包含していた矛盾と弱点とをおそろしいほど明確にした。私たち市民はそこに突如姿を見せた荒れ狂う暴力性に対して、現実的にあまりにも無力、無防備であった。これはまさに言葉による名状しがたい暴力そのものだ。
多治見の選挙管理委員会が認めない誹謗中傷のビラ(二度に渡る警告)が頒布された。あれから1年半。
このことに対して、みんな事件のことは忘れようとしているのだから突っ込むな、ただの飲食店の店主ごときが騒ぐな、選挙に違法はつきものだと言う方々が一定数おみえだ。その気持ちは、気持ちとして分からくもない。しかし、みんなでうまく事件のことを忘れてしまえば、それが良いことなのだろうか?
実はそういう人ばかりでない。この事件をこのまま風化させちゃいけないと強く思っている人だってちゃんといるのだ。法律がすべての解決でもない。大事なことは、「私たちの社会システムが用意していた危機管理の体制そのものが、かなり杜撰で不十分なものであった」という大きな現実を身にしみて認識することではないでしょうか。
法律とは、あくまでも犯罪による結果の集積の有無に過ぎない、社会環境により犯罪か否かが決まることよりも、選挙管理委員会が認めない結果の実態が、いまだに多治見市民に向けて充分に公開されてない事実である。言い換えれば「過失を外に向かって明確にしたがらない」多治見市の組織の体質である。「身内の恥はさらさない」というわけです。
その結果、そこにあるはずの情報の多くは「裁判中だから」とか、検察の審査中だとか、「選挙中の出来事なので」というわけのわからないような理由で、市民からの質問を大幅に制限している。
また様々なマスコミ関係者に取材依頼を申し込んでも、「私自身は出来れば協力したいのだが、ちょっと上の方から……」という言い訳を聞くこともあった。情ないことに警察も市議も同様だ。おそらく誰かが正義のために動こうとしてもそれに伴う責任の所在が明白になってしまうからだろう。だから箝口令が敷かれることになる。
それは多くの場合、ハードな命令ではない。上司からのソフトなほのめかしである。「まあ、もう終わったことだし、あまり外には余計なことを言わないほうがいいんじゃないのか」というようなあくまでも漠然とした、しかし誰にでもわかるほのめかしだ。
私たちは、この巨大な事件を通過して、いったいどこに向かって行こうとしているのだろうか。
最後に、私たち多治見市民はいったい事件の無関心を装いどんな有効な物語を未来へ向けて持ち出すことができるのだろう?荒唐無稽なビラがばらまかれた。それに放逐できるだけのまっとうな力を持つ未来の予想図を果たして手にいれることができるのだろうか?私たちはもっと真剣に考え続けなければ、すべてが欠損したまま同じ事件は必ずおこるのではないでしょうか。
無関心であることは、誰か別の人間の悪い夢への同調であり、後味の悪いものへの同調である。
※長文になりましたが、ビラについての詳細は、ネットを検索すれば一定数のコメントで把握することはできるでしょう。誰もがおかしいと感じた選挙であることは説明するまでもない。この誹謗中傷をどう受け止めるか、どう今後の市政に活かすかはあなたたちの内なる心次第だ。