さぬきの歴史

さぬきの歴史やお寺のことなど

ガイドって? 志度城

2019-10-06 22:39:28 | 東讃の歴史

今日は「ルンルン♪ 町歩き」のリハーサルと言うので、張り切っていたのだが、
「志度浦」も「志度城」のガイドも
「そんなに詳しくやらなくていい」とバッサリ切り捨てられ、ふて腐れている。

志度図書館に通って、志度城に関する記事を集めた。
戦国時代は、たくさんの武士が入り乱れて、正直、うまく整理しきれていない。
長い長い歴史をたった5分で説明せよ、と言われても
聞き手の知識もバラバラだろうから、難しい。

ガイドって、難しいよう~~。

私はできるだけ、可能な限り、情報を集めたい。
そして、それをできるだけたくさん伝えたいと思うのだが、
世の中の人はそんなものは欲していない、と言われた。
じゃあ、ガイドなんて、いらないじゃん?!

どこにでも書いてある短文程度の知識なら、立て札読めばそれですむ。
それ以上のプラスα がガイドの存在意義だと私は思うのだが。

ところで、「志度城」に関する紹介文には出てこないが、
志度城跡

の隣に、こんな地蔵堂がある。
つい最近、発見(?)した。
もちろん、地元の人は知っていて、毎年、お祀りもあるという。




それから、志度城跡にある「天照大神」と書かれている五角形の石塔は
「地神塔」と呼ばれて、徳島県、香川県東讃地方、岡山県に多く見られて、
他ではあまり見ないものなのだそうだ。
なぜそうなのか、興味津々だが、
5分のガイドでは永遠に発表の場はなさそうだ。

それから、それから志度城跡前のこの建物。


なんと、明治時代の志度村役場だったそうで、
今も人が住んでいるのだとか。

せっかく調べたのに、聞いてさえもらえなかったので、
ここにのこしておく。



旧平賀家住宅

2019-09-16 22:28:07 | 東讃の歴史
昨日15日は、平賀源内先生旧宅を訪ねました。


家から徒歩5分くらいで行ける所にあります。



平賀源内記念館は、以前百十四銀行だった所に新しい建物がありますが、こちらは旧家の方、写真もたくさん撮ってもよい、ということで遠慮なく撮らせて頂きました。


源内焼釜
こちらで焼いた箸置きを使わせて頂いています。

旧家の見所は薬草園でしょう。



和のハーブ園と言うところでしょうか。

さっそくお茶を買わせて頂きました。


肌の若返りに期待しましょう😊 


こちらもお土産にいいですね。

お砂糖は東讃地区の名産品で、志度の町はお砂糖のおかげで、たいへん潤った時期があるようですよ。



古墳まつり

2019-06-02 23:02:26 | 東讃の歴史


6月2日、さぬき市津田で「古墳まつり」がありました。




さぬき市には四国最大と言われる前方後円墳があります。












この富田茶臼山古墳は
①三段筑成
②盾形周濠
③陪塚
を持つという特徴から、
5世紀前半の築造で、
皇族、あるいはかなり大きな権力を持った豪族のお墓と考えられています。

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古墳の主は誰なのか?

大化改新(645)より前、地方の国は国造によって治められていました。

「日本書紀」には
「讃岐の国造は景行天皇(71-130)の皇子神櫛王は讃岐国造の始祖」とあり、

「国造本紀」には
「応神天皇(270ー310)の頃、神櫛王の三世の孫須売保礼命(すめほれのみこと)を、初めて国造に定め給う」
とあります。

神櫛王が讃岐の国を平定し、その功によって、子孫が国造になったのでしょうか。

また、
敏達天皇(572ー585)の頃、
寒川郡の凡直千継(おおしのあたえちつぐ)の祖先で、神櫛王の子孫、星直(ほしのあたえ)が、讃岐国造となり、紗抜(讃岐)の大押直(おおしのあたえ)と姓を賜い

庚午年籍(670)では凡直(おおしのあたえ)となり、星直の子孫は、讃岐直、又は凡直となりました。

さらに、791年には、凡直千継ら21戸が讃岐公となります。

この神櫛王~凡直 の一族が古墳に関係があるのではないかと考えられています。

ところで、この「凡直」気になります。
志度寺を創建したのは「凡園子尼」で、
玉取伝説で不比等と結ばれた尼も「凡族」と言われています。

「凡直」についてもっと調べたいですね。



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参考

「志度町史」
「郷土史事典 香川県 昌平社」
「四国新聞社編 讃岐人物風景 1古代の名僧と宰相」